みえないばくだん

たかはしよしこさんの『みえないばくだん』という絵本がある。
2011年の震災後、ネットで話題になり、よしこさんのブログにあるお話しを読んだ。
私もあかいつぶつぶの絵を描いていて、みな様々に考え行動をしているのだと思った。
大変いい内容だ!という声と、こういう表現が差別を生むんだ!と言う声やら様々な意見が飛び交った。
問題の箇所はなにだったかというと
その時のお話しの結末には、指の数がいっぽん多い少女がでてくる。
「どうして私の指は6っぽんあるの?」と少女は聞く。
その子のおじいちゃんとおばあちゃんは、あなたかもしれません。
そう結ばれている。
私も当時この事故によって何が起きるのかそれにどう対処していくのか、
まったく考えが追いつかなくてこの部分は戸惑った。

ただ、この話の結末が起すであろう論争は予測できた。
けれど、このお話しに描こうとしている想いは伝わった。
内容で何を一番言いたいのか、それは奇形児が生まれるんだよ!ってことじゃなくて
私たちが何故こんな事態を許してしまったか、今、これからをどうしていくのかであって
結末の表現は、この出来事をよりリアルに感じて欲しかったのだと思った。

その後、加藤さんによって絵がつけられて紙芝居形式で動画サイトにアップされた。
素晴らしい絵で感心した。
絵を描いた加藤さんもよしこさんも、話題になったからホイホイと動画をアップしたわけでない事も
ブログで知っていた。悩み決心した経緯が綴られていた。
このお話しを読んだひとたちの、たくさんの非難とたくさんのたくさんの褒める言葉の中にも
作者として「そうじゃないのよ」と思う事があったのは見て取れた。
私もあかいつぶつぶの絵を描いていて感じた事だった。
本として出版する時に、きっととてもたくさん話し合われただろう、終わりの部分がかき直されている。

同じものなのに、人によってどうして受け取るものが違うのだろう。
それに対してどこまで作り手の持ち場なんだろうか。
表現してどうしても伝えたい時に、伝わらないほど弱めてしまったりひっこめてしまったりすることが、この真剣に立ち向かわなければならない今の世の中で必要なことなんだろうか。
病気になる事や障害を持って生まれたとしても、そのいのちにはなんの区別も無く尊くて、
けれど、そうなることへ人が手助けしてはならない事とだから避ける事と、そうなった理由は関係なく震災前の昔から心を痛めて来た人たちも、今もこれからも全てのいのちがしあわせに生きるためには何が欠けていたか考え正していかなきゃならないのをどう考え伝えるのか。
私の描いたあかいつぶつぶの絵も同じ問題を抱えていて、私もたくさん考えた。
原発の事故や放射能のことを勉強するだけで無く、
心理学の専門家や障害を持つ人や難病を抱える人たちの事を知るために本を読み、webを調べ、会いにも行った。
人の感じる不幸はどこから来るのか。何としても乗り越えたかった。
引っ込めたり止まるわけにいかんと思っていた。

みえないばくだん絵本のあとがきにある、著者のたかはしよしこさんと絵を描いたかとうはやとさんの言葉を読めば
同じに考えて考え抜いてつくったのだとわかる。
矢面に立ち、批判も受け止めて、それでも進んでいく覚悟がある。
自分の心を認めて欲しいわかって欲しいなんては思っていない。
この世界の未来をだれもがもれなくしあわせにくらせるようにつくっていきたいという、強い願いがあるだけだ。

まずは、本を手にとって読んでからがスタートだと思う。
本にするにあたって、結末が改定されている。
でも、私にとってはそう重要ではない。最後に触れるが、私にとって障害や病気は不幸になる原因ではないからだ。
改定しようがしまいが、言いたかったのは「我が事として感じて!考えて!行動して!」ということだと思う。

そして、ひとつの物語や1枚の絵を見て得るものは、受け手の背景やものの考え方やおかれた状況と先入観に大きく左右される。どうやっても描き手の私にはコントロール出来なかった。
これは当然の事で、じつは主導権は受け手にあるという事だ。
この事を色んな問題に応用して実験してみた。
「この人は悪い人に違いない」そう信じたときはその人のいうことは黒い影におおわれる。
「この人はきっとふかく考えているのではないか?それを探してみよう」そう思うときは、本人が仕込んだ覚えが無くてもそこから学びを発見する。それも欲しいだけザクザクと。
なにぃ!自分で選べるやんか!そう思った。
私はここにもの凄く希望を感じた。
私たちの使える魔法はこれでは無いかと思ったんだ。

私たちが受け取るスキルを磨けば、一瞬で世界が宝の山となる。
あかつぶの絵もみえないばくだんも、間違わずに役立てられているのは、みんなの磨きがかかった心のおかげだ。
作り手に責任が無いというわけではない。
常に考え、進化していくのを怠けちゃダメだ。
つくる人も、受け取る人も、おなじくらい役割は重い。どうか目的のために共にチームを組めないかと思う。
何にしてもひとりひとりの影響の割合は少しなんて事はないと思うんだ。
本当は私たちは非力なんじゃなくって、みんなにまんべんなく力があるってことなんだ。
私はそう考えているがどうだろうか。
私がこの本を読んでもう一歩深めて欲しいのは

人が不幸せになるには何が必要か。
私がこの二年半考えて今行き着いた答えは、
「自分が望むように扱われず、邪魔をされサポートされず、強制的に犠牲になる、自分が願うように生きられない事」だと思う。
ここに障害や病気はでて来ない。
私たちの何が、誰をどうやって不幸にして来たのか気がついて猛反省するとともに、
『誰もが望むように扱われ、願いは叶えるためサポートされて、そのとき他が犠牲になる事無いよう話し合われ協力し合い、のびのびと自由に生きられる社会と人』を目指す。
ますますはりきって進んでいくつもりだ。

みえないばくだん
http://www.amazon.co.jp/dp/4097264575

この本から学ぶ事感じる事を放棄するのはもったいないと思う。

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あかいつぶつぶの絵
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コメント (1)

  1. mmk より:

    福島の女の子達の中には被爆した自分は将来、赤ちゃんを産んではいけないのではないかと悩んでいる子もいるそうです。

    実際には妊婦が一定以上の放射能を浴びれば胎児に影響を及ぼす可能性はあるけれども、妊娠していない人が将来産む子どもの身体に影響を及ぼすわけではありません。それは科学的根拠があると同時に、過去の原発事故や広島長崎の被爆にもそのような実例はありません。

    作者は出来事をリアルに描いたのではなく、反原発という作者自身の考えをより印象的に植え付けるために、根拠のないストーリーを仕立ててわざと扇情的な表現にしたのです。

    それに対して、これくらい過激な表現にしないと誰も動かない!よくやった!というのがこの本を支持する人の意見で、嘘を書いて偏見を煽るなボケ!というのが批判する人の意見なのだと思います。

    ところで、作者は福島の人のことを指しているわけではないと言いつつ、読み手にははっきりと福島の人達のことだと分かります。

    もし、子どもにこの本を読み聞かせたとして、原発事故とは関係のない安全なところで育った子ども達は福島の子ども達についてどう思うでしょうか。それを考えるとこの本こそが「みえないばくだん」に見えてしまうのです。

    放射能は人の身体を壊しますが、風評被害は人の生活を壊します。福島の人達は既に原発の被害に遭ってしまった人達です。この人達の前で、この本を呼んであげられますでしょうか?

    この本が議論のきっかけになるといいと作者はおっしゃっていますが、議論以前の問題なのです。

    福島のことだなと読み手がはっきり分かる状態で「奇形児が産まれた」という話が作者の不安から来る妄想の話が書かれているのですから、マトモな人は「いや、それは違いますよ。その表現は危険ですよ」と言うしかないのです。

    実際、否定派は原発だの未来の地球の環境がどうのというところまで言及していないでしょう?

    できないのですよ。。。

    地球や子ども達の未来について不安なのは分かりますが、不安はやたらと煽ればいいというものではありません。不安を煽ったばかりに被災した当事者達の心を傷つけてもいいものでしょうか。もっと別のやり方があったのではないでしょうか。

    作者には自分のお子様のことだけではなく被災地の女の子達やその親達のことも大事に思って欲しいです。

    そういうところまで考えが及ばない人なのだなと思うと、どうしてもこの作者や作品を支持することが出来ません。

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