心の痛みによりそうとかなんとか

今ある心の痛いことには、
それがどうにも痛いのであるから痛くないようにしたいと思う。
それが、痛むべきかとか、間違ってるとか、
私が考えて決めるのは不可能だと思う。
私が無条件にだいじに思うのは、この「痛い」ってショックを受けてること。
放っておきたくない。

心底痛くないほうがうれしいのでいろいろ考える。

人の心が辛いのもしあわせなのも、その人の持つ概念によって決まる。
だから、その概念によってがんじがらめになるなら
まだ概念を持たぬ子どもには、もっと成熟した概念を持てないだろうかと思う。

私が新しい概念を作り出すことを提案したって、今持ってる概念を否定しているわけでないのに、
今の考え方は、「新しい提案は間違ってるものを正すのだからあたしは間違ってるって言ってるのね!」って妄想する。
その憤慨や身動きとれぬ悲しみだって、誰かに与えられた人の知恵での後付けなのだから
変えたければ変えたっていいじゃないと思う。

どんな考えでも、浸透するとええなって思うのは
「賛成されなくても大丈夫だ。」ってこと。
皆が望むことはどれも大切なことだ。
そして、
一個叶ったから後は我慢するとか、勝手に遠慮しなくていい。
全部願いは並べてみせておくのがいいと思う。

たとえば、
「ここから離れたくない、離れられない」
「被ばくしたくない」

状況で言うとこうなることを
概念と状況と両方から考えて、この二つが同時に叶えられないとする理由と、
それが理由に上がる概念も濯いでいけば
そのいのちが満足と納得をする答えが必ず導きだせると信じている。
(被ばくをしないことでそれが出来る方法を)

だから、私は痛みによりそうとか、あんまりよくわからなくて
(そもそも痛いかどうかは本人の決めることで他は決めれんもんだから)
その心にはそっとお布団かけてトントンするけど
おいしいあたらしい具のおにぎりも、テーブルに並べてみせる。
気に入ったら食べてみて。
気が済むまでゆっくり養生して。

手伝うからお好きにどうぞ。

これは、あたしにも大事なことだから気に病まないで。
って思う。
誰のプロセスも大事な役目があるのだと思うし、早けりゃいいってもんでもない。
私がやってることは支援じゃないなあ、私の未来を作ってる感じがしている。
わりと合理的に、でも愛しく考えていると思う。

私の子どもも皆の子どもも、誰かの子どもであるわたしたちも
はっと目が覚めるほど楽しく毎日を暮らせるとうれしい。
それが出来るといいなって思う。
でも、これって私の持つ概念がそう思わせてるわけで、
しれっと他人のしあわせをジャッジしてるのよね。
だからさ、自分のことだって思うのが自然やと思う。
「私の願い」だから押し付けようとか思えなくなる。
参加自由のパーティーを開き続ける。

相変わらず、わかり難い文じゃのぅ。
みなさんのイタコ力に期待。

2014-08-25 13.37.35

こちら、難しいことなんも無く「すきすきすき」パワーだけで
あらゆる問題を解かしていく、ゆずまろくん。
しかも、そのすきすきは、旨いものくれ、遊んでくれ、という要求とセットになってるにもかかわらず。
煩悩だとか、カルマだとかも吹っ飛ばす純粋なLOVEとエゴと、それを許容するLOVEのつくりだすパラダイス。
おばあちゃんとか、ときどき持ってる?小さな生き物にけっこう感じる?
この「宇宙の仕組み」に注目している。

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