大丈夫じゃないときは大丈夫じゃないのに気がつけない。

また、分かり難い話。
みなさんのイタコ力に頼る。

母は死んでしまう三日前まで少し歩ける時間と、眠り込んでしまう時間と(今思えば昏睡していたのかもしれない)
病気の重さが違う人のように、様態が変わった。

まだ母が歩けたり、したころ。や、もっとその前からたびたびあったこと。

母のベッドの足下に薬のビニール袋が落ちている。
食事を運んでマッサージして、両手に食器を持って部屋を出る時に気がつく。
あ、あとで拾おう。
夕方、お風呂へはいってもらって着替えの服を出したり
ふと気がつくとまだそこにビニール袋がある。
(母は落ちているものを拾う事以上の事が他では出来てた。)
お掃除の時に片付けると、また、何か落ちてる。
母は拾わない。

拾えないんだ。
身体は動いている。
けれど、それは精一杯で動いてるのであって、その他は出来ない。
自分でもギリギリだと気がつかないで動く。
私も、動けない事があった。
タバコに火をつけようとして指にはさんで一時間。
打ち合わせにも行くし、仕事もするけど家に帰ると
一人きりで、動けなくなる。
これは、今も改善してない。
たぶん、まだギリギリなのだと思う。
母は、自分が死んで行く時も自分のギリギリがわからなかった。
私が見つけるギリギリを手助けしたとき
「あ、やってもらって助かったんだからきつかったんだ」と、気がつく感じ。

自分の体調がおかしい事も気がつけないほどおかしい。
子育てと仕事で、リミッターは外れ易くなってるから、慢性的に死にものぐるい。
がんばれを内と外から勝手に受け取ってリミッターを外し続ける。
じぶんさえもが気がつかなくて、声が出ないのに叫び続けるように、
私の中の私がどんどん弱っていく。

「だいじょうぶ?」そう聞かれても大丈夫じゃない事がわかるなら大丈夫だ。
傍目におかしいのに、「え?大丈夫だよ」そう返って来た時は要注意だと思っている。
だから、大丈夫っては聞かない。
知りたい事が知れないので意味がないから。
実際、イライラした。大丈夫?と聞かれる度に。

人って、身体も心も全体的に弱っていくと思ってた。
でも、実際はそうじゃないんだと思う。
心も身体も、きっと、どこかは100%健康で、どこかは瀕死の重傷って感じで。
全体的に弱ると思い込んでいるから、元気だ所に気がつくと、全部そうだと思ってしまう。
だから、自分でも他所からもわからない。わかり難い。

もしか自分にだらしのない事があっても、感情的に変わってしまったように思っても、それにはみんな理由がある。
けっこう、物理的なことでもあると思う。
いろんな事が足りていたら、イライラしたり怒ったりを続けていくのは困難だ。
観察して確信を持った。おそらく、必ず、気がついていない理由がある。
その理由をそのままに、自分を責めて苦労して改善しようとしたり、
怠けているとか、変わってしまったと決めつけないで欲しい。
自分のことでも、友達や家族の事でも。
がっかりするのは、こんな風じゃない時があったからだ。
周りの人は、意地悪になったとか、私の事嫌いになったのかと、疑わないでね。
自分のことなら、出来ないのには理由があるから、くれぐれもこれ以上苦しんでがんばらないように。

だから、どうでもああでも、それでもとにかく、大好きを送り続ける。
手伝い続ける。
手伝うから、お好きにどうぞ。
あなたがどんなでも、わたしがどんなでも。
そこに在ってくれてうれしいということは忘れない。

途中、思いがけず嫌がられても嫌がっても、大好きは減らない。
(稀に、本当に困って嫌がられているかもしれないが、
そうならばあなたの愛が濯げてないかもなので、わしゃ、そこまでは知らん)
信頼して、愛しく考える。
そうすれば、最短で、湧き上がった自力で、誰も必要なくは苦しまずに、いいところへいい時期にたどり着く。

たぶん。(たぶんなのか)

よろしければコメントを残してください

CAPTCHA


訪問中 :
Fatal error: Call to undefined function counterize_get_online_users() in /home/sites/heteml/users/a/f/r/afrogs/web/mikanblog/wp-content/themes/mikan_blog/sidebar.php on line 106