朝の一人会議

昨日、スコップ団の団長のブログと色んなニュースを見た。
今やってる事の中でも色んなことが起きた。
ここ最近の出来事もあわせてイロイロ考えた事を今朝書いた。
Facebookからコピーしてここにとっておこう。
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老後困るから子ども増やすとか、
お金は縦割りでしか使えんから他所にあってもどれだけ切望されてもこっちには使えんとか、分けて肝心なところ混ぜこぜにしてる。
「ごめんなさい間違ってました、けど、こんなに困ったことになっているのでどうか一緒に助けてくれませんか。」と、やれんのだろうか。
人権が尊重されて、誰にも等しく満足する生活を営むことが保証されるのなら、子どもを持つ持たない、待ちたいけど持てないことも思い合って、仕組みに縛られた考えにはならんと思うんだけど。
こんなに長いこと叶えられなくて困ったことがたくさんあるのに、それが間に合うスピードで改善されんのは、全体が意味なくカチカチ頭だと思う。

本題で揉めず揉まず、態度が悪い感謝が無い、失礼があった嘘をついたと、問題がズレていく。震災直後、失礼も言ってたことと違っちゃうことも「事情があるだろう」「通常のやり方じゃなくてもいいじゃないか」「叶えたい願いに向かおう」という信頼と寛容で動けたのに。
その時と今と何が違うんだろうか。

私も震災の直後は「緊急事態」だと思って一番の頑張りどころだとはりきっとった。(余所事でなく、自分のうれしい事だと忘れたくないので頑張るんじゃなくて「はりきる」と言ってる)東日本大震災の前は「普通の日々」だと思っとった。そして「平穏な日常に戻っていく」ことを目指して期間限定ではりきってた。

放射線のせいで病気になったりする事があると知って、あらゆる方法で悲しい事困った事を減らすために「どう困るのか」病気の人や障害を持つ人たちの様子を調べていった。
そうしたら、びっくりした。難病を抱える人や、障害を持つ人の中には産まれた時から今の今でも「緊急事態」の中で生きてる人がいた。
これは、たいへんな事だと思った。
いままでそんな人たちが居るとも知らないで見ようとしてなかっただけで、ずっと緊急事態でこれからもずっと緊急事態のままじゃないか。
と思った。

じゃあ、もう、東日本大震災直後のあの感じでいいって思ったの。失礼とか、通常のやり方とか気にしないで、ちょこっとばかりのズルやワルモノを防ぐ事に神経をすり減らして、たくさんの喜ぶ人や助かる人を増やしたいのに行えなくなっちゃわないように、自分のほうを育ててズルや悪もいい勉強材料になるよう知恵を絞ろうと思った。
自分が変わってしまわないように、「緊急事態ですっとばしていいこと」を確認できるよう、わざとささやかなところで問題の起きやすい実験も始めた。
誰に対しても敬語を使わない事や、態度を余所行きにしないこと。とか。
寄付のために企画書をもってこいって言う案件も受けなかった。時間もなかったし、知りにきて欲しかった。「緊急事態」だから。

それから、自分の生活を考え直してみた。どこかで終わる緊急事態ではないから、その中で私の人生の満足も叶えたい。ここが一番たいへんなのかなあと思ったら、友だちや家族が喜ぶのは自分のいい事よりもうれしいっていう心の仕組みがあるから知り合う好きな人が増えていってうれしいや楽しいも自然に増えていった。気がついたら一番大好きな絵を描く事も目的と充実を持って、苦労無く精進されて、苦手な普通とバランスをとる事も「緊急事態」で解除されて、私はしあわせになった。
今まで生きてきた半世紀を数年で大改造してるわけで、つじつまの合わん事もあるけど支援だとかボランティアとか言うのがはばかられるほど私のためのしあわせをつくる事にもなってきた。

私のカチカチ頭は、こんな事を考えて変わってきた。

分けるとこ分けないで混ぜちゃ不自然なとこ混ぜないでやっていきたいと思って、誰に賛同されんくても、ほんとはイヤだけど嫌われても、誰かが私のために辛かったり困ったりしないなら、思うようにのびのびと生きていい気がしてきた。
世の中がどうなっても私は笑顔で言おうと思ってる。
納得いかないことには「従いません」って。
それを出来る限り平和に華麗にやるためにはりきっとる。
愛があれば「それはどうして?」ってみんな思うもの。
愛があれば困難に出会った時、たった一人でも心は切り抜けられるもの。

実際に困ったり命を落とすようなのはイヤだけど、
心の「つもり」は緊急事態のように、自分が守られ尊重される事も含めて無条件に心配し合ったり喜んだりできる柔らかくタフにアイデアを湧かせていけたら、すばらしいだろうなぁって思ってる。
きっと、世の中の仕組みだってにこやかに変わっちゃうかもしれない。

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