今朝考えた事

横川圭希さんのメルマガを購読しとる。
昨日のメルマガは、辺野古の問題は基本的人権の問題でこれが守られないのなら、被ばくのことなんてもっと守られない、と結んであった。
関わる全てにオペレーション・コドモタチで考え続けた事がブレずに現れとると思う。
私もそう思っている。この世の中にあるのは、すべて基本的人権が尊重されていない事で起きる問題だと言ってもいい。

被ばくするのを他者が「これくらい気にしないで居なさい」と強制する。被ばくをする側も望んで被ばくする事など無いと思う。方法はあるのに叶わないからだ。基本的人権では、たとえまき散らされたものが納豆だってイヤがる権利があるのに、放射性物質だと病気になるという証拠が無いとイヤがる自由も無い。おかしくないかな。
そこで、人々は病気になることを証明しようとする。でも出来ない。

自分の大切にしていたものの上に、うじゃぁ〜っと好まないものがやって来てしまった、それだけで被害者だし、加害者は被害者が納得するよう全力で希望を叶えないとならないし、大事なのは困っている人が可能な限り納得する状態になる事でそれを叶えるために行うのは誰でもいいって私は思ってる。後できっちり加害者に精求するとしても。一番は、困っている人が困らなくなることだ。

この初めての事態に何事が起こるかわからないので細心の注意をして対処や予防をしていくために調査検査していくのであって、そもそも誰もが認める命に関わる緊急事態でなくても、誰もが望むように生きる権利を尊重されることを忘れちゃいかん。
基本的人権は「これは尊重されるのにふさわしいレベルである」などと、他所から決めるものではなく、万人がもれなく持つ基本的人権の間で起きる摩擦を話し合いながら叶え続けていくものだと私は考えている。
私も以前は持っていた「叶えられるのにふさわしいか」って、なんなのだろうこの考えは。
誰かが何か望む時に、それが叶えられるに値するのか考える癖がついてしまっている。これはすごく変な考え方だと私は思う。基本的人権を尊重すると書いてある憲法を守ろうと言っているのに変な話だ。話し合うのは叶える時に起きる他の人権との摩擦のはずだ。それを越えていくのが知恵と愛だと思う。

みな優しいのだと思う。誰がやってもいい事をやってくれとは言わない。
誰もをもれなく守るために在ったと信じられていた政治が昔から機能してなかった事に気がついても、個人にその責任を負わせるのは無茶だと思っている。
でも、
国のお財布、私のお財布、このお財布の分けかたってなんだろうと思う。
政治が行えるのは個人のお金が集められているからで、主導権は私たち個人にの集まりに在るものをやりようが無いから代表を決めて今のやり方に変化して来た。国の財布と個人の財布には誰がお金を入れたのか。私たちのお財布だから同じなのにね。
政治は個人のしあわせをもれなく守ることを究極の目標として調整しながら作られている最中で未だ未完成。税金がアップしておかしな動きになっちゃった国会で使い道を決めてもらうのを止めて、個人的に必要なところへお金を突っ込んでおいて、今おかしなお金の使い方をしてるのを止められないおたんこなす達に、あんたらに任せる金はないと言えばいい。そのお金も私たちのだから意見を聞かずに(聞いたフリをして)使うでないと言えばいい。このほうが損は無いと思う。
政治家も人権を守りしあわせを作る仲間だから横には並んでも謙る事はないやん?
システムがでかいからそうそう簡単にはいかないけど、政治は暮らしを良くする事で、政治家がちょろちょろいろんなイベントに顔を出すのは、本来は地域の様子を見て意見をもらうためだと思うわ。
仕組みや考え方が下手なだけで、お金もあるのに、そのお金を使う事は上手にお金ちゃんの旅にすれば、私たちの収入になるお金なのに、理解していないから手も足も出ない。基本的人権に沿って政治や経済が機能すれば、個人で備えて貯め込んでおく必要も無いのに。
私の考えが夢見る夢子ちゃんに思えるように世の中は出来てる。
世の中が謎のお呪いにかかってるなんて、映画みたいだもんね。
でも私がデザインとかイラストで四半世紀食って来れたのは夢見る夢子ちゃんの部分のおかげだわよ。

日本国憲法でも、世界中でも守ろうと決めている「基本的人権」は死なないためじゃなく、自由で文化的な安心できる生活が保障される権利。
戦争も、虐待も、差別も、DVも、自殺も、原発も、殺人も、辺野古の基地の事も、六ヶ所も、水俣も、文化的な生活をするまでにとても届かないのに受けられない介護や介助も、あれもこれも、同じに基本的人権が守られていない。私たち個人のしあわせさえもが得にくい状態では難しい。

ていねいに扱おうね。自分の中の悲しみや痛み。
たいせつに思おうね。自分のいのちの満足。
他と比べたり小さいって蔑ろにするのは不自然なんだ。
そうでないと、他所も出来ない。他所は実は自分だし。

(朝からえらく長なったな。)

いのちかからんでも、守られるべきもんだって事と、誰がやってもええんだから個人がやっても構わんよね。でも、国と個人って変な分け方やん。結局私たちだよ。という話。

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