3月の11日の朝に考えたこと

放射線について

アホな大人がヘマしてまき散らした放射能だ。

みんなで協力してみんなが満足いくようにするのが道理じゃろうが。バカじゃないのか。

気にし過ぎることも、気にしすぎないことも、摩擦が生まれることも全部引き受けてその中で考えていくのは、子どもが大きくなって自分の意志で人生を歩み始めた時に「自分が決められたならもっと〜したかったけど、もうどうにもならないもんなぁ」って思うようなことをどんだけ減らしておけるかってところだ。大事なのは。

「ああ、ぼく、もっと被ばくしておきたかったなぁ〜」って思う子どもが居るだろうか。

大人のメンタルや社会の混乱を子どもの未来の上に置いて歪めるでない。

「もっとニコニコ暮らしたかったなぁ〜」ってこともだ。

気にしないでニコニコ暮らすんじゃなくって、軽やかにさくっと守れる環境をどんな苦心してもつくり出す。無理だってサジ投げずにお金かかったって最優先で遮蔽も取り入れてニコニコ暮らすに近づいていこうではないか。「や、あたしもっと被ばくしたいのよっ!お願いっ!被ばくさせて!」って人なんか居らん。そうだったら我慢なんかさせちゃダメじゃないか。

これは、放射性物質と直接接してる人じゃ手が回らないから、私みたいな人がはりきるといいと思う。

努力のしどころが違うヤツが多すぎると思う。

専門家やお偉いさんは社会の混乱を避けたり、不都合を避けるために情報をコントロールしていることが露になった。「正確なデータに基づいて」が、ほんとに正確か確かめることが不可能ってことだ。なんでソコスルーして「正しい知識を!」とか、どの口が言うわけ?意味わかんないですけど。内部被ばくは大丈夫だとか、日本の事故で出た放射性物質はチェルノブイリ原発事故より少ないとか、チェルノブイリでは影響が出たのは五年後からだから今見つかってる甲状腺がんは検査し過ぎで出て来ちゃっただけで事故前と変わらないとか、うじゃうじゃいうてますが、ぜ~んぶ「こうではないか?」って?ついてる事だよね。

「あの人はAだったから、きっとあんたもAだよ」なんてことを「あ〜、そうかぁ!」と思うかよバカやろう。

いろんな人が居る。想像する以上にそれぞれ望むものも違うし、得意不得意も違う。それぞれが、この状況を乗り越える力をつけたり考えを導きだすのを、苦しくなく、できればスイスイと楽ちんに、心配なく焦らず出来るように協力する。その間のしわ寄せを子どもに持っていかなくていいように。

よけいにやりにくくするでない。

「気にしすぎ」とか、他人にどうこう言われることじゃない。「気にしない」ことも同様だ。

周りの大人のどんな決定があっても、将来大きくなった子どもががっかりすることを減らすのが大事なこと。と、私は思っている。

ごまかして来たことを洗いざらい表に出して、シビアにタフにおおらかに、もどる時が来たんだと思うぞ。「いのちが大事」うそこけ、この社会ではいのちは一番じゃない。そもそも人類はいのちよりも満足や納得が大事なんだ。いのちが納得して満足することにいのちをかける。

命を守るなら命をかけて大切にしている満足や納得を守るってことだと思う。

たぶん、人の特性には自分以外の人のことも手伝うのが快楽だと組み込まれている。それが出来なかったり邪魔したりするのは環境が影響するんだと思う。無関心っては思わない。多くは関心を持つ余裕がないのだと思う。だから、どの人も自分に満足して安心して暮らせるようになることを大きな目標にして目指すのが、みんなの願いが叶うステキなプロセスと結果を生むと思ってる。それに挑戦し続けること自体が楽しい人生になるように、私は考えたい。

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