いつも何度も同じような事をくり返し書く

まいどまいど、まとまらない事を書く。
いいんだ、このブログは上手じゃなくても。

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3月11日にみんなと同じようにPCにはりついて

出来ることを探して始めた。

数人の友だちが津波被害の現場に駆けつけてた。

原発が爆発。

2011年4月

放射線のテキストを作って放流。

あかいつぶつぶの絵を放流。

足りていなくて、わたしのチカラが出来るだけ大きくなるのは描いて作ることだったので。

既にわたしはヨボヨボだった。震災の前から。

もう、何もかも休憩して坂道を駆け下りる足を止めるつもりだった。

当時、まとまった現金を持っていなかった。

ヨボヨボのわたしの能力と小銭で何が出来るか。

勝手に放射能の担当になっていろいろな体験をしていくうちにわかってきたのは、起きていることは自然災害の害じゃなく人による滞りのほうが災難だった。放射線は減らせないけど減らせるのはソコだと思った。

起きてしまったことを更に悪くしてしまう。

それがイヤでイヤでしょうがなくて、行っていく上で、心の弱さに付け入るものを全部はねつけようと思った。

気軽に絶望できないとすごく厳しくなった。諦めるという選択肢は無かった。

これは、最初に出会った坂ちゃんが見せてくれた。最初に会ったのが坂ちゃんで良かったと思う。

(坂ちゃんは小学校の先生で、新学期子どもに配るテキストに「放射線で死んじゃうこともある」と書いてきた。ひっくり返った。テキストは厳しかったけれど、子どもたちの持つ能力を信頼していた。わたしは坂ちゃんのテキストをデザインしてイラストを差し込んで4ページの子ども用放射線テキストを泣きながら徹夜で作った。2011年の4月だった。)

実際に子どもにそんな能力が在るのか、坂ちゃんはどんな子どもたちを育てているのか、福島県郡山市の学校へ見学に行った。ちゃんと、そんなすごい子どもが居た。「深刻にならずに真剣に立ち向かう。必ず乗り越える。」ということが出来ると信じた。

有名な人や、偉い人に頼ることも、お金をもらったらしばられてしまうことも、誰かがやってくれると預けて従っちゃうことも、誰かが「やっていいよ」と言わないと動けないことも止めにしたいと思った。

いろんな声がかかった。

いろんな人からのメール、会いに来る人、取材の問い合せ。

取材が来たり国会議員の秘書さんからメールが来たり、大小の出版社から絵を表紙にしたいと連絡が来るのにびっくりしていた。

そして「やばい」と思った。わたしはそれまでちっとも有名な人ではなかったし、しっかりと意見貫くような強さも整理した頭も持ててなかった。

飲み込まれてしまう気がして作戦をいくつか立てた。極端でも損をしても、失敗してこの流れがしぼんでしまっても心が濁ったらダメになると思った。

【誰とも何とも横並びで服従しないために】

敬語を使わない。

どんな案件でも、どんなに有名な相手でも優先順位を早いもの順にする。

お金をもらってももらわなくても差をつけない。

最短でいけるものを選ぶ。

【心で動くために】

意味もなく仕組みや手続きを優先してることを見逃さないでいちいち抗う。

無理なことでも気弱にならないで挑戦する。

失敗をすることでもやる。

仲良くならない。

自分で確認したこと意外に影響されない。

カンを信じて外れたら意地でも何とかする方法を見つける。

【わたしもみんなも最大の力を持てるように】

絵のリクエストに出来るだけお応えしない。

絵は描き直さない。下書きをしない。

チームワークを見越して一石で何鳥もねらう制作物をつくる。

なので、たいへん失礼な柚木ミサトが出来上がったと思う。

けど、これで失う礼は要らないと思ったのね。

とんがった心は、四年間に出会った人たちに癒されて丸くなった。

わたしが想像するよりもたくさん、要らない礼をすっ飛ばして愛しく考えてくれる人が居た。わたしの性格はぼんやりしているけど疳の虫は強いので穏やかでない。みんなに修正されながら、素なほうが修正が利きやすく間違っても良いことに変換される法則もわかった。

でも、わたしの人生はガタガタなままで、このまま突き動かされていっていいのかいつも不安になってた。そして、相変わらずアホみたいに忙しかった。母の具合も日々悪くなっていって、入浴の日と調整しながらごはんを作り置きしていろんな場所へ出かけた。

母が尊厳を持って生きることが、家族がこのように自営業で自宅に居ても難しく、ここにも人による滞りが在るのかととんがりながら。

そんな中で「きゅうりちゃん」が思わぬ威力を発揮し始めた。

きゅうりちゃんは、わたしの望むようなひょうひょうとした強さとおとぼけを勝手に発揮し始めた。状況は変わらないけれど、しあわせが増えて来た。これでまた、人生は自分の心に主導権があることを確信した。

きゅうりちゃんを連れて各地を回ると、大勢の人がきゅうりちゃんを愛してくれていた。どんな厳しい時でも、喜ぶことは邪魔をしない。それはソコにいる人がすばらしいわけなのだけど、きゅうりちゃんは喜びを増やせるとわかった。

四年間、駆け足やお通いで女川石巻、仙台、福島各地をちょろちょろ。

帰って来ると聞かれる。

「どうだった?」

「知りきれないことがわかった」

何回行ってもわからないことがわかります。

自分以外の心はわからないです。

わたしの心さえも、長い事自分でもわからなかった。

映画も見られなくて泣く事も出来なくて、水の止まった水道みたいに感情の蛇口を開いてもしゅ~という遠い風のような音がしているだけで水は一滴も出なかった。

自分が置かれている状況よりもわかりやすく東日本大震災は起きた。

ハッと我に返ったみたいに涙があふれて、目が覚めたように息をしたのを覚えている。

被災地に行ってもわたしが考え感じたように、とてつもない量の感情と時間ごとに移り変わる心がそこに在るだろうことは何となくわかるのだけど、想像を絶する量で認識できなくて圧倒されてしまう。目の前の人の誰もに何層にも複雑に絡み合ったフエルトの一本一本の羊毛が何かを思ってぎゅぅっと固まっているような。

たくさんの人に会って、其所で合うからなのか、みな自分の心に何か持っている事を伝え合う事が出来て、被災していなくても、それぞれの心に比べる事の出来ない悲しみがあったりするのだとわかって来る。えらいね淋しいね辛いね。そんな話をたくさんしたような気がする。

わからないことがたくさん在るとわかりました。

わからないのはたぶん自然なことです。

想像や数日見聞きすることでは到底追いつかない。

わたしは、自分の感じ方をけんきゅうして

ひとりひとりは同じものを見ても感じることが違うんだとあらためて思った。

このわからなくてバラバラな感じ方は、わからなくてバラバラなままでよくて、お互いの苦しみを労り合うのはもちろんだけど、お互いの楽しみを手伝い合うことがだいじなんだと思う。

「死にそうじゃない?」「困っていない?」から、「しあわせで居る?」「満足できてる?」と愛しく思うことがいいんじゃないかなと考えるようになった。

しあわせを寿ぐことの中に、困難や悲しみをそのままにしておけないことも自然に仲間。

わからないのだから、ズルいだろうとか、悪いだろうとか、怠けているんだろうとか、決めちゃもったいない。

きっと、だいじな気持ちがたくさんある。

出来るだけそう思ってじっけんしてきたけど、疑うよりもいいことがたくさんある。

誰の考えも押さえつけず、その願いを叶えることだけを考えていく。その時に困る人が居ないように話し合って方法をあみ出していく。そうしていけば願いは勝手に濯がれてうつくしくなる。

そうしながら、やりたいんだったら人生を冒険できるように、翼を背中に生やす方法も考えていく。ケロ。

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