不可能と可能を整理する

「知ろうとすること」
「ふくしまのこそつぎょう」
これらの本が物議を醸しております。

なぜ誰かが何かを言ったり考えたりしたことが、誰かに影響するのでしょうか。
4年間考えて、まあ、5年めに入るわけですが減りつつもやはり傷つき続けています。
私がそんなふうだから、もっと心が痛い人もいる。

私は、なんで人の意見が影響することが可能なんだろうか?そう考えました。だって、本当は不可能だからです。状況は千差万別です。しかも傷つける相手は自分の事を深くは知りません。「こうだと思うわ。」というのは、相手の希望であって自分のことでは有り得ません。その証拠に「自分はそうじゃない」と思うわけです。
そして、私たちは自分の人生を思うように生きる権利を持っています。誰になんと言われようと。基本的人権と言うものがあって発言の自由もあります。でも、それなのに発言の自由で快適に生きる自由が奪われるような気がする、もしくは奪われるのはおかしいのです。

だから、人の言うことで、自分が望まない影響を受けるにはどんな概念を持っているからかしら?と考えていったのです。そうしたら、大事なことをすっかり忘れちゃって習慣としてこびりついているものが見えてきました。
私たちは、自分の考えは多くの人に賛同され「よくわかるよ!その通りだね!間違っていないよ!」と、太鼓判を押されないと辛くなってしまっているのです。まるで何かの許可がいるみたいですね。
忘れたことは、自分のしあわせや望むことに許可なんか要らないってことです。「そんなことしてるなんてどうかしてるわ!」と言われても、自分には関係ないのです。
「あの人はきっとこうよね」そう言われても、その瞬間に自分が「こう」に変身するわけもありません。「こう」だとしても「それがなにか?」なのです。賛同など本当は必要ないのです。世の中にその考えが自分立った1人でも尊重されるものなのです。堂々と出来ない理由はなんにもどこにもありません。それどころか、もっとこうして欲しい!と望んでいいのです。何かを選択したら何かを我慢しなきゃならないなんてことはありません。叶える方向だけで考えていっても、出来ることと出来ないことは出て来るでしょう。でも、大きく違うのは心の痛みだと思います。たどり着いた答えに、それまでに互いに愛しく考えたことを感じ、満足した心がチカラをいっぱいつけてみんなで越えていくのではないでしょうか。

不可能なことを可能にして望まない影響を受けるのは、この社会や自分が持っている刷り込まれた概念が無ければ不可能なんです。ちょとややこしい?

自由は、それぞれの自由がふれあう時に不都合があれば話し合って解決しながら問答無用で「叶えていくもの」です。「やめさせる」のではなく、叶える手段を考え続けていくのです。物理的に困ったことを解決して、こうあって欲しいもあらゆる方法を相談してお願いしていくのです。理解できない、間違ってるからやめさせるのではなく、どうだったら叶えたくなるか考えるのです。

この基本となる概念がすっかり忘れられ、自由の許可制が染み付いちゃってるんです。
そんなの自由かしら。

今までの概念ではとても難しいです。非難する気持ちが混じるのは基本が心底理解出来ていないからです。私も道理はわかっていてもいまだ傷ついたりくよくよしたりします。けれども、どうしても自分が生きているうちに本物の自由をエンジョイ出来る私になりたいと思っています。そうなればきっと叶えていくプロセスも楽しく清々しいと思う。イソイソしますね。

ゆきつもどりつですが、私の目指す「ドライでホットな人間関係」を実践出来ることが多くなっています。みなが笑顔でのびのび生きる。その様子から逆算して未来の脳と心を想像して足りないものや余分なものを考えています。着地は、誰も傷つかないようにひとつになろうというものではありません。違ってもそれぞれがのびのびと生きられるようにしたいのです。そうすれば不可能も可能も、それぞれに良いようにそれぞれひっくりかえります。

私はこう思っています。
「手伝うからお好きにどうぞ」

2020

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