ばあちゃんになるか。

昔、昔誰かが話してくれた。
子どもが生まれた友人の家に遊びにいったらたいそう散らかっていた。その時に同行した友人らが口々に「子どもが小さいもんね、しょうがないよね」と言うのに反発を覚えたと。「子どもが居れば何でも許されるのか。私には子どもは居ないのに。」この話しをしてくれた子はすごく頑張ってるんじゃないか。どこまで頑張ればいいのか、わからなくなっちゃってるんじゃないか。部屋はチリひとつ落ちていない。すごくセンスも良くておもてなしも上手でかわいらしい。すばらしい。
その時は何といっていいのかわからんかったけど、今は大変な時は助け合い許し合えばいいし、大変じゃなくても助け合い許し合うのがいいじゃないかなって思う。誰だって楽をしていつもそれで十分以上だって思われて。
じつは、この社会は大変じゃなくても手伝い合い許し合う前提で出来ている。それを、まるで助けてもらったり許してもらったりするのに、条件があるように解釈をしてきたんじゃないだろうか。
たった少しの誰かが怠けるかも知れない、ズルをするかも知れないと。
だから、みんなが何となく頑張りすぎてしまう。困らないと助けてもらっちゃダメだと思う。
誰かがラッキーになる。ハッピーになる。楽になる。いいじゃないのかしら。十分に楽になったら心の余裕ができるかも知れない。すごくハッピーなら分けたくなるかも知れない。
その子に、今なら「あなたがいつも部屋をきれいにして、明かるこそこに在ることは、とても特別なことですばらしい。子どもが居るからしょうがないというよりも、貴女だって誰だって出来ないことがあってもかまわないし当然だと思うよ。疲れている時や出来ない時は誰だってそのままでいいと思う。子どもが居なくったって自分の出来るよう、したいようでいいと思うよ」って言うかな。

誰かにしてあげようと思うことは、自分にもしてあげるべきことだ。
自分にあることは望むなら誰にでも与えられることだ。
それによって誰かが困らないように気をつけて。

う〜ん、なんかすごいことがわたくしの感受性に起きてる気がする。
解明するまでちょっと静かに考えたい気分。

願わくば、アナタがそこに在るだけで軌跡だって大喜びするお婆ちゃんみたいに。
みんなでばあちゃんになるか。

2015-04-20 14.25.47

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