放射線の問題はどこへ着地するのか

放射線の捉え方のズレにはいくつかある。
「正しく知ろう」じゃどうにもならんのだと思う。
「わたしの正しいとあんたの正しいは同じじゃない」から。
目指すのは意見の統合じゃない。
目指すのは「異なる意見が同じ場所で生きる時どうするのがいいか話し合う」こと。

で、状況を整理しなきゃならない。

まず「是非とも東電から出た放射線を浴びたい」という願いでない限り個人が苦労することなく放射線を避けられるようにサポートされなければならない。個人の苦労を他人が計れるわけがないので本人の本心を確認できるようにしなきゃいけない。

責任者からもサポートがされないまま、理不尽な選択を迫られていてどっちに転んでも苦労しかない状況を理解する必要がある。人は行政や加害者だけに償われなければならないわけではない。国民主権と考えるなら当然誰もがこの未熟な社会の責任者であるはず。

主張は現実を捉えている者の国民主権を行使できることになると思う。「なんとかしてよ」ではピントがズレすぎるのを今の状態から見てみんな知ってるのだから。文句を言われないために我慢する、放っておいてもらうという発想にならないようにしなくちゃいけない。

だって、意見の違ういろんな願いのその先は「満足して幸せに生きる」ことのはずだから。誰が「是非とも東電から出た放射線を浴びたい」と考えているだろうか。わたしはそんな話を聞いたことがない。何故か放射線を浴びることと引き換えにしか願いが叶わないと信じ込んでいるだけで。

「そこに留まることが悪いんだ」「放射線を浴びても安全だ」なんて、いらん世話だと思う。「誰が助けてもいいけど行政がすることだからと助けられない人」と「本当の調査なんて誰もまだ出来ないのに、勝手に実行無理ラインを決めてこのままでも安心という人」が居る。

この非情な事態の中で諦めず守りながら生きていくために、協力や助言されることも断たれようとしている。なんて厳しいんだろうと思う。社会の未熟を弱者を火に炙ることで解決しようとする。わたしには「なんで誰も他くけてくれないんだ!」ずっと声が聞こえる。

人が国や県や学区でチームを組むのは、弱った時や困難にあった時に誰もが苦労なく乗り越えるためだと最近気がついた。今自分が自立して一人で生きているように思っていたけれど、私たちは助け合わないとこの労働対価をもらえる社会は維持できないし、病院にも行けないし、いつも軽々登って行く階段も作ってもらえないのである。

実は、自立なんて誰もしていない。

実際にこの理不尽な原発事故の被害に全員がへこたれたら、日本はガタガタになってわたしのもらっている賃金だって支払われないかもしれない。誰のことも責めはしないけれど、国や自治体のせいにばっかりしてるのは調子がいいことは自覚しておきたいと思う。

人助けは誰がやったっていい。けど、実際に困難を歩くのは当事者。だから、被曝を避けてもらうのはわたしからの「お願い」と思う。安全と思う人は思ってていいけれど、納得がいかず心配なことも自然なことだからあらゆる道をふさいじゃいけない。ぴったりくる道を作ることを諦めちゃいけない。

正義や真実なんて信じるモノでくるんくるん変わる。他者が考えた正義や真実を強制するのでなく、本来持っている権利をしっかり適応してその命が満足することはその命が決めることだから、その命が願うことの変化に合わせて常に叶えようとすることが社会の役目で、未来に残していきたいことなのだと思う。

たぶん、私たちが追求していくのはこれだと思う。

●あらゆる選択が行われることによって、他の人の選択が閉じられないようにする。

●自分で選択ができる考えを持つ。

そして、ごどもには

●将来どんな選択をするようになっても後悔がないよう真っ新にしておく。

●大人の都合は混ぜずに、子どもの誠の利益だけを考え守り与える。

さて、これが共有されたらどんな変化があるだろうか。

とかなんとか、ここまで考えてる。まだ人にはなせるほどまとまってない。
けど、ちょっと見えてきた気がする。

2015-11-20 13.47.45

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