障害が特別じゃない日々

ドキュメンタリー映画
ディスレクシア
「カメな日々」
-美んちゃんの場合-


http://www.dxnahibi.com/

ディスレクシア、初めて聞きました。

この映画の主人公、美ちゃんはディスレクシアという読み書きの障害を持っています。

大人になって気がつくまで、なぜ読み書きが他の人のようにできないのかわからずにいました。

社会に適応できず仕事もクビになります。どんなに頑張ってもできるようになりません。

障害の一つだと知って、できないことでなく得意なことで生きていくのを決意した美んちゃんの素晴らしい変化が描かれています。

実はまだ見ていないので、ぜひ見たいと思っている映画です。

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ずっと引っかかってたんです。
「なんでこんなことできないの?」
「やる気がないからできないんだ」
「普通これくらいわかるじゃない?」
「あいつはダメだ。」
本人に伝えられない批判や、噂話。
それを聞いた人に「やる気がないらしいよ」「努力が足りないらしいよ」「ダメな人らしいよ」と嫌われていく。
面と向かって意見されても、本人の努力では解決できないのに。

みんな自分はまともだと思ってる。自分ができることは他の人もできるはずだと。
ほんとうにそうだろうか?

私もちょっぴりディスレクシアな気がする。
でも、自分の弱点をそのままにしておくと制作物ができないので「自分ができるようになる」を後回しにして周りに協力を求めた。
あらかじめ弱点を宣言して助けてもらうようにした。「できない自分」に落ち込まないように、「できない私」にイライラされないように誤字脱字を探そう!とか言って公開間違い探しにしたり、あらかじめサポートしてもらうことをお願いしたり。
「間違い」が最悪なアクシデントにならないように意識の持ち方も問いかけてみたり。
何かを作るときは、完成してそれが効果を上げることが目的で、私ができるようになる訓練じゃないと思ったから。
私は自分が普通では無いと思った。それを認めるために「普通でなくてはならない」を止めることにした。
そう思えるまでにくどいほど考え続けて。

私は50歳。今までいろいろな人と関わってきた。
過去を振り返ると「なぜできないのか」「わかってくれないのか」というのは
文化の違いと、能力の違いがほとんどだと思うようになった。
スイッチを入れてくれないのを悲しんだり怒ったりしていたけど、入れるも入れないもスイッチがないこともあるんだと知った。
誰にも他にできていることが必ずあるのに注目はできないことにあつまる。
それはやっぱりおかしいと思って考え直した。

足のない人に向かって「歩く気がないから歩けないんだ!」と責めるようなものだ。
私が絵を描けるからと言って「なんで目の前にモデルがあるのに、見たまま描けないのよ!そんなの信じられる!?」と言うのと同じ。

障害はただの能力の差であって、不得意なことをサポートされないときに害=不都合が起きる。障害の問題ではなくサポート体制の不備の問題だ。
わたしたちは全員どこか障害者だ。
その影響が大きいいか小さいかは違っても。
だから不得意は補い、得意を提供し、みんなで助けあって生きるために人は社会を作っている。
人類は、人の役に立つことが最高の快楽とエネルギーを得るようになっているから求めるのだと思う。

その基本仕様が活かされないのは、活かせる状況に無いからだと思う。

これは、いま世界中に起きている問題を考えるのに考えないではいられないことだと思う。

 

コメント (1)

  1. iris より:

    ホントにそう思います。

    できる、できない、はどうでもよくて、「好きなこと」があったらめちゃくちゃ素敵なことだと思う。
    それだけでリスペクとできちゃう。
    世の中には、自分が好きなことすらわからない人の方が多いんだから。

    つくづくと、まわりをきょろきょろして他人のモノサシを「借りる」のはかなしいことだと思う。
    こうすべき、こうしてほしい、なんでできんの…身勝手な言葉の暴力が人にストレスを与え続ける。

    だれもをスッピンのまま受け入れることができたら、すごく愛にあふれた世の中になると思う。

    いろんな価値観の共存ということの大切さ、素晴らしさを改めて思う年の瀬でした。

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