怖すぎて自分を考えられないわけ

差別や偏見は「正義の顔」をして近づいてくる。いかに正しくなくて、いかに横暴で、いかに無知であるから、粗雑に扱っても良いと。自分への差別や偏見は、相手の正義に許可されているのに。このぐるぐるを断ち切るのはまず自分からしか始まらない。その通りだ思う時、もっと自分に突っ込めると素敵。

けれど、私は自分に矛先を持ってくるのは、今でも怖い。「正しくなくっちゃ病」なのだと思う。冷静に考えると、ちっとも怖いことでなく、もう苦しくなくなるチャンスの到来なんで、「宝船にラッキーが乗ってやって来る、朝日、ピカー!」みたいなことなんだけど。

ちょっと脳内で絵になってめっちゃ愉快。

いつも瞬間にどんなもんが見えるか、さかさかっと描くと、まあ、こんなかんじ。

 

逃げたくなるような怖さを持たないの。
方法がある。
怖くても我慢するんじゃなくて。

反省や後悔や恥ずかしさが気になっていても、
それよりはるかに大きいよろこびで迎えられることなのではないだろかぁ。

正義はまあまあ困ったやつで、正義に縛られてるから怖い上に見抜けない、っていうような話。
正義を使わなくても出来る方法はたくさんあるし、なんだったら使わないほうがブレない。

実験していい感じなので、私には無理がない。
(個人差があるでね!)

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