今日ふと思ったそのまんま

ほんとはさあ、原発が動こうがどうしようが、みんなが急速に変わっていって今までみたいに電気が売れなくなって、安いものじゃなく良いものが売れるようになって、チェーン店じゃなく地元のお店がにぎわって、困っていたら多めに払ったり、困っていたら安くわけてあげたり、良い志を持つ事が商売の目的で、みんなが行なう事の向いてる先に、いつもみんなの幸せがあれば、半年ぐらいで世の中変わっちゃうんじゃないのかなあ。どこかに行くときバスを使ったり、買い物に行くときこえをかけあって一台の車で出かけたり、夕ご飯を数人で集まって食べたり。キャンドルを灯す日があったり。「こりゃ、原発なんてやってたら他の仕事も干上がっちゃうぜ。」「オール電化より薪ストーブのほうが売れるよな。」「ベクレて無いほうが売れるよな」「勇気出してみんなの幸せを考えたら前より潤っちゃいました!」を沢山作って行ったらだめなのかなあ。そうだよ、やっと資格を取って立ち上げた商売もあるかも知れない。うちだって電気が無いとやっていけないお仕事だけど、原発を止めるってことは誰かの仕事を無くすこと。誰かの人生を変える事。それ相応の覚悟と人生の転換が必要なことで、それは私にも言える事で、わかっているようで、わかっていなくって、その想像力の無さがこんなに長引かせてる原因だと気がついてきちゃったんだ。そうできないのは、正直だったら生きられないと思うからだよ。いい事だけで食べていかれないからだよ。正直だけで生きられるようにしようよ。いい事だけで幸せになれるようにしようよ。

仕事が無いと怖いのは、誰も助けてくれないと思うからかも。みんなと一緒じゃないと怖いのは、認めてもらわないと価値が無いと信じてるからかも。いつから自分の財産は自分だけのものになったんだろう?いつから人と関わる事がうっとおしいことになったんだろう。プライバシーとかいって、一人になりたかったのは本当は自分がそのままでいる事を誰かに批判されると思い込んでるんじゃないんだろうか。本当は、誰もが違っていて、正しい事なんか無くて、結婚なんかしてもしなくてもどうでも良くて、子どもが母親に抱きしめられずっと笑顔で育てられなくても不幸せじゃなくて、なのにそうじゃないと不幸せだと誰もが思い込んで。誰もが、決めた幸せから外れたと思う事が不幸せの原因じゃないかと。
本当は、誰もがそのままですばらしくて、誰にも認めてもらう必要も無く、認めるという考えさえも無かったら?間違いという考えも、無かったら?

今までを急に変えたいんだ。原発を無くすという事は、今までを急に変える事だ。私たちも急に変わらないと「経済が立ち行かなくなるから徐々に時期を見て止めましょう」それって誰かの利権かよ!と同じなんだよね。

いろんな事を考えて、いろんなことがあった。

 

じつは、裏の空き地が大きなドラッグストアになる。すごく安い値段で貸し出される。昔は一面田んぼだった。今は大きな木があって、ススキや野花が生い茂り誰も使わなくなって。おかげで景色がすばらしかった。私はその土地の事を何も考えなかった。ステキな景色を楽しんでいたのに。お店ができたらその土地はコンクリートに覆われてしまう。どうして貸さなきゃならなかったか。何年も、使われずそのまま。その土地で畑を作ったり、そこの作物を買ったり、みんなで工夫してそのまま育てて守っていけば良かったのに。誰のものでも。これは、原発が出来た仕組みと同じだと思った。スーパーで野菜を買うのに裏の畑では買わない。お金(アリガト)のやり取りはいつからいやらしいことになってしまったのか。ひんやりする。

 

原発に無感心をやめても、被災地に無感心はやめても、自分の近くでこんなことが起きてた。ぽか〜んとする。急激に変わらないと。急激に変わりたいと。もう人生をもう一度シャッフルしてもいいくらい。そんな事を思った。

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