死にたいほど最悪でも実はそうでもないこと

私の家庭事情をいきなりはじめるけど、(や〜、説明すると長くなるので)
娘と息子が中学生、高校生の途中で引き離されて会えなくなったわけだが、それは突然にやってきて、まあ、二人とも家から居なくなった。想像してみて欲しい。まさか、我が子が予告無く突然居なくなること。自分でもよく耐えたと思う。
娘と息子は、嫌々居なくなったのでは無く、父親の再婚とともに子どもたちが望んで新しい家族と一緒に暮らすようになった。

新しい家族は、元家族には会わないという文化を持っていたので、私との接触は突然断ち切られた。私はもともと子どもが必ず私と暮らすのが正しいとは思っていないので父親と暮らすのはやぶさかではなかったけれど、方法や、その文化は理解を超えた。突然なので、子どもたちの部屋にはすべて、そのまま何もかも残っていた。まるで、死んでしまったようだった。それから、電話もメールも会うことも出来なかった。息子はこっそりメールをくれていた。もの凄く辛かった。会いたくて会いたくてしかたが無かったし、いちいち辛かった。このまま子どもたちが戻って来ないとは思わなかったから、ひとまずの目標は「気が変になって死なないよう」にカウンセリングに通ったり、ありとあらゆる方法で子どもの居ないことを耐えた。法的にたたかえないことはなかったけど、それはナシ。子どもから家族を奪うことにならないように。

このとき乗り越える為に、湧いてくる思いを徹底的に分析して分類した。私のエゴと子どものために考えていること。ひどい話しだと同情する声に浸って悲しみを増幅させないことも。相手を攻撃する自分の心も研究した。そうしたら越えるべきところや方法が自然に解ってきた。 息子と娘がいなくなって、住んでいたマンションはバカみたいに広くて全ての価値が無くなった。何も要らなくなってしもうた。自分の分析もどんどん進んだ。私は100%ピュアな愛で考えることに近くなったんだと思う。子どもが親に向ける愛に近づいた気がした。(異文化交流を深めるスタート地点に立てたともいえる)

それから半年が過ぎ、息子が帰ってきて、娘はいまだ離れたままだ。5年目か。(あんまりカウントしないので間違えてるかもしれん。これは私の性質だ。)
行ってやりたかった卒業式、入学式、体育祭、お弁当を作ったり、髪を結ってやったり、毎日顔つきを観察したり、悩みを聞いたり、一緒に映画を見たり、重ねるはずだった出来事や失った時間はもうもどらない。

息子が戻って毎晩話した。たくさん、たくさんたくさん考えた。半年離れただけで、この先何年もかけて理解しあうことがショートカットできた。これはすごいことだった。息子との関係だけでなく、息子自身も学び、私自身に起きた変化も。半年間を埋める以上のしあわせだった。
私が関わるはずだった娘との時間はもう戻らない。けれど、その間に娘が得た物はどれほどあっただろうか。私は娘を幸福にしたい。そのために仕込んでおけることは手を尽くした。いちばんは、私が変わることだった。私が不幸であったらその時間を娘は一生悔やむと思う。いまも娘に会うことはままならん。けれど、いろんな方法で娘を知ることは出来る。 私たちが離れた時間を埋めるだけのものは、すでに届きはじめている。生きててよかったぞ!踏ん張ってよかった!娘のいるところは父親の離婚によってまた2つになった。家族は私と息子も合わせて3っつに広がった。なんと、娘は父親と離れてそこに残っている。この分断された、たくさんの家族をつなぐ為に娘と力を合わせる日も近いと信じる。

私が側に居られない状況は変わらないけれど、いまは安心して娘を見守っている。 将来子どもを持ったときや、いろんな経験を重ねる度に過去が意味を持ってくる。そのときに娘にどう役立つか、また自由に行き来できる時にどれほど成長しているか。楽しみだ。自分の子を自分が育てられないことになるとは、思いもしなかったけれどそれを最悪のことにしないのは難しいけれど出来ないことじゃないの。不幸な出来事を、越えられないほど不幸にするのは、世の中や個人の持つ常識と偏見だとも思っている。

大人の心は複雑で、いろんな心配をするけれど、出来事はただ出来事でそれに意味を持たせるかは自分次第。今直面してる心配事や困難はどんなことであっても、その気になれば得るものはすばらしく大きいってことを信じて欲しい。 近く、また証明できるはずだ。

※私は、他の人と自分の生き方が違うのはその人のもつ「文化」の違いだと考えました。離婚した父親とも違ったし、娘の暮らしている家庭とも違います。文化の違いで心が痛みすぎると問題が発生しますが、他の文化を否定することは解決にはならないと考えとる。異文化交流は、受け入れることから始まるんだと思う。常識や偏見を脱ぎ捨てて。

コメント (2)

  1. nomoto yukari より:

    ミサトさん,泣き虫な私を泣かせたな!
    この罪は大きいぞ!!
    ミサトさんがそんな苦労をなさり、それを前向きにとらえ、
    今まで生きていらしたからこそ、こんな大きな方になったのですね。
    理解しました。
    まだ直接はお会いした事がないのは残念ですが、新聞記事にも載って知人から見せてもらったり、
    官邸前や色んなデモで、赤い粒々の絵を使わせて頂いています。
    わたくしの場合には、一人息子が海に呑まれて死にました。
    だから、永遠に21歳のまんまの息子(ミサトさんと同い年の私)は、
    別に市民運動を積極的に賛同してはくれなかったけど、戦争するのはイヤだ!って、
    横須賀のジョージワシントン入港時のデモには一緒に参加した記念のひとときがあります。
    とにかく男の子って、やっぱり母親にやさしいのです…返って来てくれて良かった♪

    • yugi misato より:

      息子さんにまた会える時まで、のびのびと生ききろうね。
      はりきって生きよう。

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