NOは何も産まず永遠に終わらないから。

友人から「活動家のカップル」の話しを聞いた。
2人はあるとき気がついたんだって。
「私たちは何にYesと言っているのだろう。NO!と言うのは事欠かないのに」と。
そんな話しだった。
私もちょうどNOはひょっとしたら必要ないんじゃないかって思い始めていて
その話しに食いついた。ぱくっ。
そしたら英語の記事を翻訳してくれた。

「若いころ、ソーシャルワーカーで、DVのシェルターでも働いており、『左的』な政治活動をずっとしていました。ある時、気づいたんですね、私は、何かに対して闘うことにエネルギーをささげている人たちに囲まれているということに。夫と私は結婚することを決めて、話をしました。『私たちのYESはなんだろう?(What’s our YES?)』 『どうしたら私たちは、日常の中でYESに取り組んでいけるだろう』と。もし私たちがこのままここにいたら、私達は一生、闘い続け、NOと言い続けるだろうからです。
 今、時々、考えるんですね、よく『共感疲れ(compassion fatigue)』と言われることというのは、目の前の、日々の大変なことをしたくない、目の前の問題にかかわりたくない、家族や親密な関係、地域のことにかかわりたくないという気持ちなのではないかと。なぜかというと、そういう(目の前の)ことは、永遠に目の前にあって、決して終わらないからです。
 一方、『私、あのこと(目の前のことではなく、外側の闘うべき相手)について取り組まなきゃ』『テレビで見たあのこと』『新聞で読んだあのこと』となってしまうのではないでしょうか、『私の家族の中で起きていること』『私とあの人の間で起きている人のこと』『今、ここで起きていること』ではなくて。そこ(自分自身の今、ここ)から始めましょうよ。そうすれば、私たちは世界で起きていることに対してもっと、共感的になれると思う。自分の目の前で今、自分に起きていることのほうが複雑なのだから、そちらから始めれば、外に向かう共感性は育っていくと思う」

今日本は、NOと言い始めている。
それは必要だと思う。
でも、私は嬉しいことと組み合わせてやっていきたい。
私もくたびれてしまうのじゃ。
何を描いて望んでいるのか、忘れてしまいそうなのじゃ。
そうなるとブレてしまう。
たぶん、Yesだけで叶える方法がある気がする。
NOのプロセスがあってこそわかったこと。
その方法を、もうすぐ発見しそうな気がする。

ほやで、自分の目の前のことを、イソイソとつむいでいく。
大きく感覚を研ぎ澄ませてとおいとおい場所のしあわせを感じながら願いながら。
What’s our YES?

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