愛しく考えてケロ
戦争は反対だけど、戦争の無い世界はどんな世界だろうか。
何が満たされてれば叶うだろうか。
そこから考えて日々を過ごしている。
先日、15歳の男の子の新聞への投稿がすばらしくてシェアしたけど
ツイッターでもすごくよい記事だって褒めていたコメントに
決めた人が先に行けって書いてあったらもっといい!っていうのがあった。
怖くなった。
いったい、どうなってしまったんだろうか。
「おまえが戦争へ行け」と子どもが言う事を大人が奨励するアホな話があるだろうか。
自分が悪いと思う相手なら、命を落としていいというのだろうか。
戦争に行く命令というのは殺める事、殺される事と同義だと訴えているのに。
戦争の無い世界は、どんな命も尊く愛おしく考える人がいっぱいになった時に叶う。
何があれば叶うのか、戦争の無い世界から逆算して日々を考えている。
戦争だけしなけりゃいいわけでなくて、原因となる満たされないものを満たすためにどうしたらいいのかを世界中でいっしょに考えないと叶わない。
いきなり悪者が仕掛けてくるわけでないから、誰かが辛く悲しい思いをしているのにつけ込んで、正義のため悪人を倒すんだ!と嘘こいてやってくる。
関わる人は、目の前の惨さに正義のためと信じてがんばる。
まずは、どんないのちも分け隔てなく殺めていいいのちは無いことを心に刻んどきたい。
紙の上で決める人たちは想像力が欠如していると憤るのはわかるけれど、
自分が見て悪とする人を、戒めとしてでも死ね(戦争にいけ)と言うのは
悪者を殺して正義を勝ち取るとして戦争が行われる心とどこが違うんだろうか。
集団の狂気はこうやって起きるのじゃないか。
間違った戦争に誘われるんじゃないか。(武器を使う戦争でなくても)
私のこのしつこく細かい考えは、時に行き過ぎる事もある事は知ってるけれど、
「お前が死ね」と言うとるようで、見かけるたびにどうしても切なくて困る。
同じ事を訴えるなら、もっとええシャレたお灸の据え方は無いもんだろうか。
シャレてていいと思うのよ。
目的は多くの人に賛同してもらって、反対の気持ちを届けたいわけでしょう?
本気で本人に怒りを届けるなら見えないインターネットでやっててもとどかない。
愛しく考えてケロ。