寝ました。ぐっすり。
みよちゃんが死んで、お位牌のことでちょと信心を考えて寝た。
朝起きてちょこっと考えてみた。
信心というのは学び考える時に一緒に寄り添って手伝ってくれるのではないか。自分の傍らに置くパートナーのようなもんで。
それは、哲学でもあるし理念でもある。自分の考えのベースになって助けてくれる。
いつも泊まるお寺さんの食卓には、阿弥陀様も親鸞さんも着席してる感じがする。いつも一緒に考えてくれている。ようにみえる。
でも、それは自分の考えを持つ事を手伝ってくれるのであって、
きっと神様や仏様はそれを喜ぶと思う。
私の周りには、神様や仏様もご先祖様も友達も、うじゃうじゃいて手伝ってくれてると思う。
きゅうりちゃんはそれが楽しくて仕方ないと言うとる。
そんな事を考えるのは、とても信心深いおばあちゃんがいつも寝たきりのベッドで聞かせてくれた親鸞さんのことや、そのベッドでまた寝たきりになった叔父が同じように聞かせてくれた話、その叔父が焼香のやり方を聞いたら「心で拝むんやでやり方はどういう風でもええんや」と中学生だった私にあえていった事や、他の叔父も叔母も心の事ばっかり言う。
私は幼いころからそういうのはなんだかすごく大きくて宇宙みたいだと思っていた。
たぶん、私は勝手に、誰にもある宇宙を見つけて、つい、ひょこひょこ寄ってっちゃうんだと思う。
なんでおいしいんだろう?どうやってつくったんだろう?
いい匂いがしておいしいものを見つけたみたいに。
なに言ってんだか、なんだけど、まあまあしんけんに。
あんまりにも詰め込みすぎたので、昨晩は寝た。
湧くもんも湧かなくなる。
チャージして洗濯済ませてふと思ったのであった。
今日もブレずに行けそう。