3月11日の昼に考えたこと
思っているよりも社会は完成にはほど遠く未熟なので、その中で育った人の弱点をその人の持つ人間性をのせいには出来ないと思う。
いまはそういう時なのだから、誰かに非難されても何か責められているような気分になっても、全体的に途中なのでゴタゴタガタガタしてもええのよって思う。
こんな未熟なまま「そうねそうね」「それがいいわいいわ」となったほうが心配な気もする。
こうしてすこしゆるめると、人類が新しい段階に入ったような気がしてくる。
自分も含めて全てが育ち深めていくのを待てるように、自分を磨く。
探求する時間のしわ寄せをどこかに押し付けないように手伝い合いながら。
生き物は出来事を越える能力はあるのだと思う。越えられぬほど辛く悲しいものにするのは人間による影響だと思う。悲しみや苦しみは減らしは出来ないけど、人がによって非情に増えていくのを見逃しちゃいけない。
しあわせだったのに悪人がしあわせを奪っていったわけでもなく、
しあわせだと思っていたけど昔から非情部門はあって、その非情部門に自分が入ることになっちゃって大慌てで変更を求めるも「いままで問題は無いと言うておったではないか。こりは、長い時間かけてめんどくさい行程を経て決まったことである。変えるにはめんどくさいを飛ばさず来てくり。」と変更もままならない。
だから、いままで許されていた非情部門がそもそもおかしいことを指摘しなきゃならない。意見の数が少なくても、助けられていいレベルだと他者に測られないで、愛しく考えられ叶えられるように。
毎日もっと広い視野で見つけて急降下して原子の配列を覗いたり、自由自在に想像もしなかった方法をあみ出す。
自分の習慣や概念が、もう古くなってるのを見つけて新しくする。