やまゆり園のこと

「命は全て尊いものです」それは全くそうだと思うけど、今回そこじゃないんじゃないですか。今回だけじゃないかもしれん。毎回なんか違うというか、そもそもを勘違いしてない?って思う。

もっと、物理的に仕組み的におおきな勘違いがあるのではないかと思う。
世の中がどうできているか、生き物がどう暮らしを支え合っているか。実は全然わかってなかったのじゃないかと、わたしは最近になって気がついた。

まず一つ
「自立している人がいて、中にはできない人もいるけど、できなくても尊い命だからみんなで助けてあげようよ」って思ってない?
そもそも自立してる人など一人もいないってわかったの。わたしが一人で遠くへ出かけられるのも、学校へ通えたのも、食べ物を手に入れて調理できるのも、わたしの能力にぴったりな介助があってできたことだったの。歩く足がある人専用の階段や、指が五本ある人専用の紙幣が作られているし、目が見える人の専用の標識がある。能力に合わせた介助支援でしょう?支援がなければ生きられないのは同じじゃないの。たまげたわよ。なんて勘違いだったかと。

それからもう一つ、
国会でのお仕事は、私たちの税金をより良いところへ分配することだよね。税金は適切なところへ分配されて、暮らしに良いものを作り上げ残して、それによって雇用が生まれ、そこで働いた人たちのお給金となって分配されその人の家族を養い育てる、そしてその人の収入や消費、さらには育て上げた人たちの消費やお給金から、また税金となって戻ってくる。お金は消えてなくならない。血液のように循環して循環先で暮らしを作る。特に介助が必要な人たちは、もっとも細やかな税金の分配循環の仕事を担っている。社会の仕組みとしても、こんな良い循環をさせてくれるのは有難いことだと思う。
社会の認識が未熟なだけで、ほんとうは私たちは誰もがしっかりと仕事をすることができてる。お金は消えてなくならない。お金は循環して循環先でいくつも幸せを作る、それが本当のお金の能力。お金をより良いコースで循環させるのは大事な仕事だと思います。

けっきょくどういうことか、
私たちは一人ひとりのすでに持ってるチカラを無いものと認識しています。そのうえ、当然受けられるはずの皆にも役立つ支援を受けず苦労をしています。能力に合わせた支援と介助を皆受けてそれで社会はつくられているのに、受けられない人がいるのです。そもそも社会の認識が間違っていると感じます。
能力を補い合うこと無しに社会は作られないってことだと思います。補い合えば補い合うほど社会は豊かになっていきます。そのようになる仕組みや考え方が必要なのだと思います。

こんな考えでいたなら、犯人は「殺していい」と考えただろうか。人権の尊重や生命の尊厳を訴えても、実際には国を挙げて世界中が犠牲になる命を許している現状ではとても弱いのです。「あなたがわたしが、そこにいる必要がある」のに、助けられているように考えることは無いし、我慢や犠牲が美しいような賞賛はこんなにも過度にいらないのだと思います。自分たちの社会に(それを作っているには私たちですから)何が潜んでいるのかもう一回(何度でもいいですけど)考える必要が大至急、それぞれやってみる必要があると思っています。

皆それぞれが社会の中で「わたしのような人が自分の望むような人生を生きられること」を未来に残す役目を担っているんだと思います。これはとても大切な取り組みだと思います。一人ひとりが持っているチカラを閉じていくような仕組みは終わらせたいですね。

たまらなくて、書きましたけどまだ考えの途中です。原因は犯人の狂気だとは思いません。見て体験して考えています。これからもこういう人が育って不思議で無い社会があります。
その原因にもなる健常と障害の境界線を無意識に強く引きなおすことを、私はしたくない。あなたがわたしが必要だと強く言いたい。

コメント (2)

  1. 寺本 靖 より:

    原因は犯人の狂気ではありませんね。加害者の思想信条は、何処にでも有り、哲学の題材にすら成っています。唯、比較的成熟した日本で、犠牲者が多数である事が、世界的なニュースに成っただけです。途上国には、犠牲者に似た人は殆ど居ません、淘汰されてます。私の39歳の娘は、「やまゆり園」と同様の施設に、時々短期入所しています。近い将来、私が老人施設に収容された時には、入所する事に成るでしょう。娘には、可能な限り健常者と接触を持たせました。隔離すればするほど、似た事件は発生します。
    社会が成熟するほど、重度障害者は増え続けます。膨大する福祉・医療費を考えると、淘汰された方が幸せかな・・なんて考えてしまう、親です。

    • yugi misato より:

      靖さま

      コメントありがとうございます。
      社会は成熟しようとしてるけど、常識はちっとも成熟していないのでそのズレに一斉に困り出している気がします。
      うまく言えませんでしたけど、健常者でも社会のサポートがなければ困った人です。社会に自分をサポートするものがあるから働けもするし遊びもできるのに、サポートが十分ある人と同じ条件でサポートのない人たちが生きていかねばなりません。不足を補うのは家族です。
      障害を持つ人は、健常な人に比べてサポートが余分にいる人ではないのだと思います。
      健常者のサポートに費やした莫大な費用に比べたら、どれほど費用がかかっても税金を投入して障害を持つ人へサポートすることを、私は惜しく思いません。

      私は子どもを産む時に様々な本を読みました。何しろ四半世紀前のことなので記憶が怪しいのですが、産婆が障害を持つ子を生きていけない子としてお腹に抱きしめ息を止める役目をしていた。双子三つ子も選ばれなかった子は息を止められたり母親が顔を見ることもなく里子に出されたと書かれていました。そのころからまだ100年と経っていない。
      時代は変わって、どんな命も尊いと意識は変わってきたのに、社会はまだずっと古臭い考えのまま。だから、今回の事件のような思想が生まれるような世の中なのだと思います。淘汰されず生まれてきたら社会にはなんの準備もない。これはとても恐ろしいことですね。

      この先、淘汰していくように社会は逆戻りしていかないと思います。どんな命も社会の中でしあわせに生きることができるよう変わっていくしかないと思います。そうでないと、健常と言われる人も豊かに暮らせません。人の能力には今考えられているよりも差があると思います。単純作業は減って働く人には高い能力が求められていくと必ず適応できない人が増えていきます。その人は「出来ない人」とされ、障害者と健常者の境目などないと考えられるようになるからです。社会のシステムは変わっていくはずです。

      障害者だけの問題ではなくて、健常者の自殺者や貧困者の死も同じ仕組みで起きます。
      いままでずっと苦しんでおられた障害者とその家族に追いついてきています。犯人もまた犠牲者であるように見えます。
      こんなことを言ってもいまの困難や心配事にすぐには効き目がないのですが、たっぷりと税金を投入してもちっとも惜しくはない事、投入したお金は消えてなくならないで循環して他の人を助ける事を訴え続けたいと思っています。本人にも家族にも関わる全ての人にも十分に豊かなサポートを目指したい。

      先日友人のトイレ介助の練習をしました。一緒に遊んだり仕事をするために必要だからです。有効な事ができるかわかりませんが、その友人とも働きかけを始めようと相談しています。

      今回の事で靖さんがどれほど考え心を痛められたか、私に想像がつくとは思いませんが、自分が生きているうちにできる事をやり尽くしたいと思いってます。

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