お母さんと呼ばないで
「おかあさん」と呼ばれる事に抵抗があった。震災後も「ママたち」という言葉に違和感どころか嫌悪感さえもってしまってどうしたものかと悩んだ。これは個人的なトラウマやでね。
私は本当は名まえで呼んでほしかった。母になりたてのころは、いちいち「名まえで呼んでください」というのもめんどくさいし、ま、いいかと目をつぶる事にした。でも、おかあさんが文字通りおかあさんになっていく。私個人はどこかへ消えておかあさんになっていく状況に、「おかあさん」という言葉はその不愉快の象徴になって苦しんだ。「おかあさん」と呼ばれるだけで神経が逆なでされた。
いよいよ我慢が出来なくなって、子どもにちょっと今だけ「みさとちゃん」って呼んでくれない?なんてふざけたふりしてお願いしてみたりした。「おか〜ちゃんどこ?」「おか〜さん、おか〜さん」お皿をフォークでキイキイこするのと同じように神経に障った。
誰もが愛しく呼ぶ「おかあさん」は誰にでもいいことばかりじゃなくて、「そんなもんこの子がいれば細かい事はど〜でもいいんやわぁ〜」という、果てしない愛故に問題にもならんかったんだと、ちょっと書いといていいかしら。
いわないけれど、世の中のおかあさんは「こういうものだ」という刷り込みが強くて、そこで悩む心が沢山あることを知ってる。子どもを持たない人が増えたのにも影響してるんじゃないかと思う。子育てなんて、真剣だけど深刻なわけない。もっと気楽でいいのに。
刷り込まれた母親像に恐れをなす。どんなやり方だっていいのに。
子育ての苦しさもまた、ウソの常識に振り回されて追いつめられてよけいにでっかくなる。
自由でなくっちゃ、母親だって扱われたいように扱われなきゃ、ワハハと笑って子育てするのも難しかったのよ。
私の子育てマンガは、たくさんのおかあさんが喜ぶ。きっと、ひっかかりを自分だけじゃないって思うからじゃないかな。泣くほどじゃないけど、知っててもらったら気が済む所なのかも知れん。
そうやって、果てしない愛で容認されている事が、想像を超えてある事を言う人がいていいじゃんと思う。
まじ、たいへんやったわ、その葛藤が。子育ての大変さより、「おかあさんだったらあたりまえ」に蹴られ殴られ続けて来た感じよ。
「カミサンとか、もう女じゃないし」何て聞くと回し蹴りしたろか知らんって思う。子ども育てて生活をともにするからって、慣れちゃって自分の母親みたいに気にかけなくなる。どこまで未成熟なのかと思う。ダンナの事をそういう女性も同じだけどね。
私?だから離婚した。そりゃもう未熟やったよ!反省しとる!
今はもう平気。
この一年で、私が私になったから。
この一年で考えた事であった事は、それほど私の世界はひっくり返し、人生を変える衝撃だった。
まだまだ、追求していく。深めていく。
自分の自信は一人なら楽に自分でも持てる。
側にパートナーがいる場合、一人で立ち向かうより苦しい時も在る。
ボタン恐怖症のおかあさんの記事を呼んで、昔を思い出した
http://www.narinari.com/Nd/20120417881.html
今は、「お母さん」という言葉には惑わされない。
お母さん、ママという言葉にこだわる自分が不自由を選んでいたのもわかるから。