納得して佇んでおる。
バリ島に来て二週間くらい経った。
今朝は、やっといろんなものが整理出来た気がしている。人生50年のまあまあな部分が納得して佇んでおる。個人的な問題を見つめる暇がなくて、どうにもしんどくて、このままではやりたいことを継続していくのが困難な状況になるのが見えていたのでとことん自分を濯ぐ時間が欲しかった。じっけんして来たことがどうだったかも検証したかった。
3月のバリ島からわたくしの中で閃きキャンペーンが実施されていて、自分的にはかなりのスパルタで途中うんざりもしたけれど、どんなに疲れていたかそれなのに頑張ったかもわかったし、どんだけとろくて自分で勝手に苦しんでいたかもよくわかった気がしている。
何かを悟ったとか、どこかに行き着いたとかそんなことじゃなくて、こういうわたしでも楽勝じゃんか!という生き方が前より出来始めている。
状況はさして変わらんのだけど、得るものは格段にすばらしくなった。まいにちが棚からぼたもち。
大きかった問題が小さく感じられるのは、その問題から得るいいものが大きくなったからだと思う。こういう仕組みで状況が変わらなくてもしあわせが大きくなるってことが起きる。ここは、けんきゅうのしどころと思う。
息子の魚が中学生のときに「大人にも変だと思えば意見していいんだよ。子どもだからといって大人より優れたところが無いとは限んでね。」と話したら「人の成長は一本づつ長さの違う櫛の歯みたいだと思うから僕もそう思う。」と言った。ああ、そういうことだろうななるほどな、と思った。人はコップの水が溜まるように、どの部分もまんべんなく成長するものでもない。1人の中に、一生育たない部分も、誰よりも抜きん出て長ける部分もあるんだと思う。だから、チカラを合わせたときに思いがけんほどすばらしいことが出来たりする。行うことが困難な状況に無ければ、概ね補い合うことがうれしいように出来ているように思う。
魚が櫛の歯成長イメージを話したあと「だから、僕は思い上がったりしないよ」と話しを締めた。やっぱり子どもでもすげ〜なと思った。