給食の測り方のこと
福島の学校給食をお勧めします.1ベクレル/kg 未満保証付.@MIYAKE_YOHEI https://t.co/b81vyzVKvu
— ryugo hayano (@hayano) 2016年6月25日
早野さんが進めている検査は丸ごと検査。
この検査の心配なところは、
1品目が多少汚染されていても検出することができません。
汚染が見つかっても食べちゃった後です。
この検査のいいところは、
給食の献立を丸ごと混ぜ合わせ粉砕して測定するのでスピーディーに毎日負担なく続けられ、作業的にもコスト的にも現実的。
大人や一般の食堂では、メリット、デメリットを考えて良い検査かもしれません。
しかし、子どもに提供するものに優先するのは効率や利益や地元産業への気遣いなどのメリットでなく、「子どものためだけの判断」であるべきです。今後の原発事故への防災としても判断を迷うような陰りある方法でなく、どうひっ転んでも誰かがうっかりしても安心できる方法を選ぶのが子どもの場の理念と思います。食べる前に測ることが困難であれば測る必要のないものを提供するのが子どもには最善です。1ベクレル以下とかの数値の話ではありません。
食育として近隣の野菜を食べることを学ばせるというならば「原発事故によって大人が子どもたちへしたことの理由」を伝えれば、現在以上に社会の仕組みや農業の素晴らしさ大切さ、農家さんの愛や周りの大人の苦心も伝わる機会にいくらだってできると思います。
企業や国が起こした事故の対応をこれ以上家庭で個別にするには負担が大きい。せめて行政が子どもの周りで出来ることは「こんなにやってくれなくても」と恐縮するぐらいがいいんです。誰の子も同じように家庭で守られているわけでないのです。万人が心配する危険があろうがなかろうが、子どもの聖域にまで大人の都合を当然のように持ち込む心根を正す必要があると思います。大人の不始末、
企業や国が起こした事故の対応であることを忘れてはなりません。各家庭によってこだわりどころの足並みもまだ揃っていません。世間の理解も同じです。現場に追いついていない部分もまだまだたくさんあります。お弁当を持たせる保護者が肩身の狭い思いをする。子どもの心は板挟みです。可能なところはその心の痛みがなくなるまで待てないものでしょうか。どの子も健やかに心に曇りなく育てたい。
学校、保育園は、子どもの利益だけをまず一番に考えられる聖域です。
大人が社会と清濁併飲むのは当然在ることと思います。私が願う聖域になっていない現場で、現実的に「測ること」を実現させるためにはこれしかない方法だったのかもしれません。出来る限り検出限界を下げて「測る」という目的では最善なのだと思います。それに、健康的に数ベクレルを避けることを私も求めていません。けれど、今可能なことをするだけでいいのでしょうか?
また事故があったときに、このやり方と考え方でしなくてもいい被ばくは防げるでしょうか。
ことが起きたときに何が優先されたかということです。教育の場の理念の問題です。そこの議論が深められず、給食丸ごと検査を最善の方法として広めることは、子どもにとって十分でない気がします。今一度、「子どもに行う大人の務め」を考え直したいと私は思います。