自覚無く世の中に馴染んでいるだけで。【書き込み中】
「自覚無く世の中に馴染んでいるだけで。」
前の日記に書いた言葉。
ここを掘り下げている。
これは、考えるMr.cinである。わたしは「みさちん」と呼ばれておりまして、ローマ字表記はインドネシア風味でmisacinです。
(んなこたぁどうでもいいんですが)「みさちん」という発音が、ジャマイカ風味だとMr.チンなのだそうです。
わたくしっぽいですね。よく描けています。(指一本のわりに)
人差し指の魔術師と名乗りましたが、よく見たら中指で描いてました。(よくみなわからんのか)
さて、自覚無く世の中に馴染んでいるとは、いったい?
普通に何気なく、疑問にも思わんでやってしまっていること。
結婚なんか、最たるもんですね。
結婚制度は明治時代の遺物だと思う。
私、何気にうっかり結婚してみましたが、八年ほどで中止しました。
残念な事につがいになったとたん、所有したくなり、所有されてしまいます。
多くの妻も夫も役目を演じはじめる。
心のつながりは儀式となっていきます。
目盛りは自分の心でなく、夫、妻、母、嫁、婿に変わっていきます。
あらゆるシーンで自分の意志ではなく、通常どう行動するかに沿っていきます。
これはおかしい、反乱だぁ〜!と…と?
ところが、
子どもはかわいい。夫は愛しい。
食べ物をつくって与え、喜ぶ姿を見て、なつけばなつくほど集中していく。
さらに、ついうっかり明治のシステムに慣らされていくのです。
所有したように振る舞い、夫のダメ話を肴に女友達とカフェで何時間も無駄にすごすようになります。
夫も妻を所有します。まるで産んでもらったかのように甘え、あげくに母親と間違えてセックスレスとなります。
セックスは日本社会では放射能と同じで「無かったこと」にしたいようです。
誰もが間違いなくセックスの結果産まれたのに、日本でセックスは日向に出してもらえません。
父と母のメイクラブ♡のおかげで生を受けたのに
「おやじとおふくろのセックスなんて想像するだけで気持悪い」などというマザコンが育っていきます。
女性であっても母親の恋の匂いなどしようものなら、心はどぼ〜んと気持の悪い液体の中に沈んでいく。
セクシーな母は誰も褒めてはくれません。
結果、母親は女性を捨て母を選ぶ方が楽になっていきます。
こんなん、私の人生じゃない!と母親達は立ち上がった!った…た?
ところが、
「育児に疲れてそれどころじゃないから、ぶっちゃけこのままがいいなぁ〜っておもうの〜」
と、ラッキ〜♪と小躍りする始末。
こんな環境では、ろくなセックスが出来るわけありませんから無くてもヘッチャラなんですね。
セックスは二人で(望むならそうでなくてもかまいませんが)つくり楽しむものです。
未亡人が男性に心ときめかす様子を見つけて、ご近所は眉をしかめます。
何度も結婚をくり返す人はそれだけで人間性を判断されます。
実際、セックスネタで日記を書くのはわたしでさえ勇気要るのです。(喜ばしいことではないと刷り込まれています)
夫婦とセックスを例えにしたけど、同じような常識という名の偏見が日常にうじゃうじゃちりばめられています。
それはとてもバカバカしい事です。
わざわざ枷をつけてその枷を嘆きながら生きるみたいで。
そのうちに、世の中に飼いならされて不自由さえも感じ無くなります。
前にも聞いたけど、ふたたび質問します。
自分の母親のセックスを想像してください。
どう感じましたか?
それが、刷り込まれた無自覚な偏見です。それが差別する心です。
自分を生きるために産まれたし、絵を描いたり、ときめいたり、怒ったり、悲しんだり、突き動かされるような情熱を持ったり、
人間がこのような能力をすでに沢山持っているのに、それを封じ込めるような社会をつくっているのはおかしいと感じていた。
これらの能力を活かしきって子育てだって、恋愛だって、描いて生きる事だって同時に出来るんじゃないか。
夫や子どもに集中しすぎたり、ついうっかり世の中に馴染んでしまうのがどうにも違和感がある。
それは私の個性であるし、世の中の歪みであるし、それによる私の刷り込まれた心でもあって、
まだジレンマと戦うのであった。
ブレない理由があればNOもYESも容易いのだから。
一生迷っても、私は自分の探求していきたい。
それが私の幸せだと思う。
私は、自分が直面する問題のスイッチは自分の中にあると信じています。