正義を危ぶむ理由

今朝、突然、えらいことを思い出してしもうた。
体温と同じ暖かさの液体と固いフローリングの床の感触。

追いつめられて信じ込んでいると、望みもしない事でもやらなければ自分が生きる価値さえ無いと思い込んでしまう。自分を責めて判断力を失う。

私は自殺しようと思ったことはないのだけど、(子どもが居なくなった時は衝動的にうっかり死んでしまうかもしれないと思ったけど)手首にはためらい傷が何本もある。縫うほど深い傷で「死んで詫びなさい」とカミソリを投げられた時に、心から自分をずるいと思い、お詫びにやってみせることも出来ないのは最低だと思い込んだ時のもんだ。すっかり封印されていて思い出すこともなかったのだけれど、私はもの凄く状況記憶力能力が高いので何もかも鮮明にビデオを再生するように見ることが出来る。とてもとても恐ろしかった。

カミソリを投げ死ねと言った相手は正義や忠誠に厳しく、いつも人をチェックしていた。「この人はどれだけ忠誠心があるのか、正直であるか、人に何を与えたたのか。」いうことはいつも正しく批判される人は私の目から見ても落ち度があった。その人たちは人に対してとてもとても優しく自らも与えることや役立つことを惜しまなかった。

この二年考えてきて私が行き着いたのは、正義でモノやヒトを見てはならないってことだ。自分の正義は自分だけの主観的な考えだ。そして、何にでも行う理由があるということも気がついた。理由は損得や、個人の性質だけではない。行う人の何代もの祖先から引き継いだ環境にあった文化や習慣も、環境もその人のもつ能力も、複雑に関係している。正義は狂気をもたらす。悪とさしてかわらん性質を持っている。正義のほうが更に恐いかもしれない。愛する人にさえも向けられる事があるから。
当時の私は十分でなくまったく未熟であったけれど、それにも理由があったし、本当は正しくないから憎まれたわけではない。「もうしわけありません」と床に手をついて頭を下げた時にスカートのしたで生暖かい血が自分から広がって行ったのを、今朝思い出した。私は床を拭き片づけながら死にも出来なかった自分を責めていた。その後運良く交通事故にあって、もう償うことも出来なくなったのでその場から逃げ出せたけれど、そうでなければ自分を責めて死んでいたかもしれない。決して死にたいわけでなかったのに。

私は、自分がそうだったように私にカミソリを投げた相手も理由があったのだと思う。私のせいではない、深い深い理由。私の辛くて辛くて封印していた出来事を思い出したのは、私が納得出来る、乗り越えられる考えを持ったからだと思う。

20歳そこそこの女の子が心を痛めて自分でも何がなんだかわからず広がる血の海に座り込んでいるのを責め続ける。同じことが行われていても、正しい心は気がつかない。あなたのために、世の中のために正しいことを行わねばならないと信じ込んでいるから。その「正しさ」が、取り憑く。
原発や放射性物質はあっても越えて行ける方法があるけれど、正義で凍った心は越えられないものにすると思う。

そんな酷いことはしない、自分は違うと思うだろう。私もそう思った。けれど、ソコに居るのが20歳の女の子でないだけで、手首を切って血が広がっては居ないだけで、心の仕組は同じじゃないかと思う。

その危うさのほうが、私はずっと恐ろしい。

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