原発事故のこと(2015.8.24)
放射能が安全か危険か
ずっとずっと意見がバラバラです。
「地球は丸い」みたいに、どこかにしっかりとしたデータがあって、放射線の心配が「地球は四角じゃないか!」というような有り得ない主張であれば「いえいえ、見てください。丸でしょ?」と今のようにキミら間違ってますよ正しく知りましょうね、でいいわけです。
ところが、
ココが大事なところですが、世界中どこを探しても「なるほど!それは安全といえるね!放射能が危険だなんて間違っていたよ!」と納得出来るデータがないのです。
なのに、なぜ「納得出来るデータじゃないでしょ?」と言っても「安全だ」と考えている人に通じないかというと、信じる基準が違うからです。
「安全だ」と言う人々は、過去のデータを信じています。過去の学者が発表した数値も理由も信じています。「ほら、ここにちゃんと書いてあるだろう」と。
「危険なんじゃないか」と考える人は、過去のデータが良心で正確に求められたのでなく、政治的経済的判断によって歪められたと考えています。いわゆる「教科書に書いてあることは事実」とするのか、「教科書だって間違いが記載される事がある」と考えるのか。
私は、過去のデータといってもチェルノブイリや核爆弾の実験で、子ども時代に被ばくしたのはまさに私たちの世代。ふんわり飛ばされてきた放射性物質は過去にもあったよ!って言われても、それで被ばくした私たちの健康状態の結果は出ていないし調査集計もされていません。がんで何人か死んでいった私の同級生たちの病気の原因は探り当てることは出来ないということははっきりしています。「昔もあったから大丈夫」そんなゆるいんでしょうか根拠って。そんな定義で信じられるのなら、今証明されてることも実験のデータも意味を成すのでしょうか。
正直、どっちに偏らずとも「ここからは絶対安全な被ばく量なんて、わかんないんじゃね~の?」と思います。
で、最も大事なところです。
人生というのは長生きか短命か、病気をするかしないかでしあわせが決まるのではありません。死ぬか死なないかではなく、今まで築いてきたしあわせをどれほど崩されたか、どうやって取り戻すかです。放射線の数字とか危険か安全かがどうであっても「損害」を被っているという事実が話し合われなくてはなりません。
世の中が不準備で不勉強であっても、危険だということが間違っていても、解決しなくてはいけないのは事故が起きなければ被らなかった「損害」です。事故によって困ったことが起きて困っている人を助けなくてはならない。誰がどう考えていても「困った人」を助けなくていいということにはならないのではないでしょうか?
今、話し合いがズレていることがわかるでしょうか?
話し合いのズレが訂正されるまで、世の中が証明出来もしないことをいつか証明出来る方法が見つかるまで、納得のいかない困難を背負わせたまま、放っておいていいのでしょうか。
「放射線の影響が、どれほど少しなら絶対に大丈夫と言えるかは誰にもわからない。」現在の科学や医学、あらゆる研究や調査も「今はわからない」ということを共通の認識として持っていいと思います。その上で、私たちが共存している想像するよりもたくさんのリスクを含め総合的にリスクを下げて、この事故で被っただろうリスクや困難を、事故が起きなかった時のしあわせよりも減らさないよう、なんだったら他の部分ではそれ以上に満足して生きられるよう力を尽くすのがせめてもの償いであり、未来に残すべき姿勢だと思います。
「わからない」としても、細かな計測や現実をしっかり見据え直せば、ごまかさなくても正面からでももう引っ込んではくれない放射性物質と向き合い自分の納得いく選択で生きていく方法にたどり着くと思います。
今のままでは、次の事故が起きた時に、明らかに大きなリスクだと言える「初期被ばく」を繰り返すことになります。結果としてすぐにバタバタ人が死ぬようなことにはならなかったけれど、東京電力の原発事故で放出された放射性物質をあの当時根拠なく「大丈夫だろう」としてこどもたちも含めたくさんの人を被ばくさせたこと、放射性物質を含んだ食品を運んで食べさせたことは、結果幸運だっただけで原発事故後の対応としては最低な対応だったと私は考えています。
私たちの身体は生きようとします。なんでそこに住んでるのよ?という理解を越えた生活をする人は昔も今も様々な条件のもと存在しています。
選択の上そうしています。
不本意な選択を強制しないために考えていくのが必要な事だと私は考えます。
大切なのはいのちの満足だから。