自分とは違う考えのこと

2011年に東日本大震災があって、原発も爆発して、目に見える被害も見えない被害にも世の中は理不尽なことに「さらに痛めつける」のだと猛烈に落胆したのだわよね。
落胆しても怒っても、何か進むわけじゃないからできる事をやろうと思ったわけだけど、これ、やっていくといろんなもんにぶつかるわけさ。
何にぶつかるかっていうと、私の場合被曝を防ぐ知識を広めようとしてるのだから放射性物質にぶつかりそうなもんなんだけど、人間関係にぶつかる。
これがまためんどくさい。そして、とても苦手。

最初は、自分の考えをわかってもらえば賛成して協力してもらえると思ってた。被曝が好きな人なんかいないと思ったし。いいことは自然に広まるだろうし、粛々とやっていけばいいと。
けれど、実際はイメージ通りにいかなかった。
どうやら、わたしと異なる考えは無数にあって、それの全部が簡単で浅くもなかったし、一見わたしと同じように考えていても同じと思えないような行動につながる事もある。自分の常識や正義からはみ出すものを正すことに囚われてチームや互いの心が壊れていくこともある。いちいち本題じゃない困難が立ちふさがるのは何故なんだろうか、なんかそもそもの所が変なのかなぁって。

いままでたくさんの人が良かれと思ったり、もっと良くなるようにと行動してきたのに、なぜその行いは続かずに生き絶えちゃったのか考えてみた。自分の持つ考え以外を、わからず屋として受け入れなかったからなんじゃないかとわたしは思ったのだよ。

なぜなら、
人は自分の経験や状況への認識、受け止めた知識によって考えを持つ。良く観察したら異なる考えを持つのは自然な事だとわかるし、少々の議論で統合されるものでない。常識、普通、人の命、正義、悪、しあわせ、どれも盾にはならなかったのだよ。わたしにとっては硬くて最強の盾でも、異なる考えの相手から見たらカマボコにしか見えない。どうも、戦うもんじゃないみたいだと思えてきた。いい事であれば統一できるって思考が不自然すぎる。不可能すぎる。わたしたちは自然の生き物だと思うから、生き物としての特徴にピッタリくる方法があるはず。

で、自然な状態ってのはどんな風なのか、その自然な状態で理不尽に苦しまないで皆が幸せに生きる社会を作る個人の考え方はどんなものだろうかと、結構な時間をかけて考え試してみた。で、人間の持つ特徴を活かして一番自然な状態ってのは「誰も一切間違ってない」前提で考える事だと思ったんだよ。まず、誰も間違ってないとして、その人のやりたい事困った事を考えていくとね、互いの考えを一緒に掘り下げていく事になる。実際わたしもやってみてそうだった。たとえば、原発。正しいか悪か、危険か安全かじゃなかったのね。そこまでして「電気が要る」と思っているってとこが話し合える。「君が間違っている」っていう動きづらい押し問答をしなくなって浮いた時間で、そこからさらに掘り下げていくとお互いの矛盾や効果的な事がわかってくるよね。常識や普通という価値観が違うからこそ、お互い自分に考えもしなかったところに改善策を見出せたりする。

確かなのは、互いの異なる考えが出会ったときに起きる、嫌だ・苦しい・悲しい・困る・嬉しいとかの、それぞれに湧く感情や出来事。相手が間違ってるわけじゃないんだから尊重して考え、影響を相手にとって好ましいものにする知恵を働かせる。これが、人という生き物に自然な考え方で、持つ能力を活かすんだとわたしは思う。

人間関係のいざこざが苦手だった。けど、なんで苦手だったかというと「間違ってるのにゴネる人がいる」って思ってて、トラブルがわたしの中で嫌な事に認定されてたからだと思うんだ。でも、最初から当たり前に違っててそれぞれ間違いでも悪でもなく尊重されていいのなら、嫌な気分にならないで「おお、なんでそんな事するのか聞いてみよう」という好奇心も湧いてくるし、そもそも無理に従わなくてもいいんだし、違う事を恐れて誰も黙り込まなくていいし、自分の小さな抵抗心も気楽に伝えられる。

わたしはこんな風に考えるようになって、話し合う事が怖く無くなってきた。自分が間違える事も失敗した恥や損失よりも、改善の先の喜びや効果を考えるようになった。困難も嫌な気持ちでなく、嬉々として乗り越える事が増えた。苦手な人が何を考えているのか、なぜそのような考え方に至ったのか興味を持ったら、つい近寄りたくなってしまうじゃんか。

過去に描いた絵にまた教えられる。わたしたちは不思議な珍種の新種、人という生き物。

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