わたしという生き物の観察
わたわたしてる間は、わたわたしてるので判断が鈍る。鈍ったことの意味を考えてみたりして、その鈍ったことも「ああ、これ、ここに効いてるのかぁ」と後でつじつまが合うので、そのままでOK。けっこう辛くても効く、のか、効くようにする、のか。わからんけど。
その間、大修正を行っているのでいっぱいいっぱい。八つ当たりもあったり、道に迷ったり、もう、見ていられん状態でも、納得がいかん限りナイスなアドバイスも無駄にしちゃう。けど、そのまま自分流で考えていくと「ああそうだったのか」とたどり着く。たどり着いてからが、やっと、あの時 が効いてくる。
そうしている自分を自分が待てるようになると、他のことも他の人のことも待てるようになる。小さい頃から「助かったわ」って言われ続けて、他の人が助かることや、他の人に役立つことを考えてきて、自分がどう思ってるのかわからなくなっちゃってることに気がついてなかった。
わたしに起きる出来事の仕組みが分かってきて、ややこしいことをやってたんだなって思う。自分で選択しない近道は通れない。示されたけど通れなかった近道は、覚えていて後の選択に効く。覚えていないことは流れていってしまう。示されたもので余計に迷っても、その迷いも自分で選択したこと。出来事は全部作用する。選択というチカラによって。すべては本人の選択あってのこと。
せいは存在できない。けっきょく、なにもかも「そのままでいい」ってことになる。「そのままでいい」って思うと今までのままと違ってくる。「そのままじゃダメ」って思っていたのが変わったわけだから。
同じ時期に同じように長い人生を切り替えるような作業をしている友人たちを見ると、わたしにも誰にでも『だいじょうぶさん』は側にいて、ずぅっと信頼して見ている。何年も前に描いた絵の中に居るんですよ。「だいじょうぶさん」が。昔の絵を見返してなるほどこれかと。予言みたいです。わたしの絵がすごいわけでなくて仕組みとして後効きの法則があるんですよ。選択した本人だから。たぶん。
ただ、せいがきついと現れにくくなります。責めることに囚われたぶん。それも悪くないと思うから逃げられない時はたっぷり囚われてみたけど、気持ちよくないですね。その間は。でも、たっぷり囚われてやっとわかることです。
平気だったことが本当はすごく辛かったり、耐えられないと思っていたことが何でもないことどころか気に入っちゃったり、驚きの連続。半世紀かけて培ってきた今までの解釈を変更してるから時間がかかる。けど、おもしろいんですよ。こういうの考えるのが好きなんだと思う。わたし。
考え散らかして終わるのかな。それもいいかも。