朝起きたら呪いが溶けてました

「自分のことは自分でしよう」そう教えられてきます。
「人に迷惑をかけないようにしよう」口をすっぱくしていわれます。
でも、なかなかそうはいきません。
約束を破る度に「悪い事をした、ダメな自分」を刷り込まれます。
善いことか、悪いことかを気にするようになります。
努力して、人によっては苦労をして「正しくなっていく」わけです。

こうも教えられます。
「困った時はお互い様」
けれど、ニュースでもテレビでも手伝う人はいい人で、手伝ってもらった人は感謝して恩返しをするのが完璧なストーリーとして伝えられます。お互い様には恩返しがセットになっています。
そして、善いこと悪いことで、そのお互い様にふさわしいかジャッジされます。

わたしはたくさん仕事をしてきました。けっこう稼いだと思います。
離婚してしまったので、子どもを一人で育てる事になりました。
判を押して友達の借金を背負っちゃうし、
がんを患った身内を放っておけんくて引き受けちゃうし、
会社を始めればお給金を出すのに借金にまみれ、
実家の商いが傾けばそんな中でお金を投入してしまいます。

一生懸命働きました。
頭もついてこなかったので端から見ればまあまあめちゃくちゃに見えたと思います。
たいへん苦しかったです。
一番苦しかったのは、自分がやらなくてもいい事を被ってしまっているっていう思いでした。
自分の子どもを親が養って面倒を見ていくものだと思っていたし、
自分でやらかした借金はちゃんと自分で返すのが当たり前だと思っていたし、
稼げてなかったら何としてでも稼げる事を考えだすために、
チームで協力して知恵を出し合うもんだと思ったし、
投入されたお金は親子でもなあなあには出来ないと思っていました。

だって、自分のことは自分で出来るようにって、教わって来たじゃん?
そう考えると、わたしだけこんなに苦労するのは理不尽です。
でも、「人のせいにしない」という考えもありました。
端からは「やりすぎ」「子どもの事を考えて」とも言われていました。
で、お人好しでNOと言えない、いい顔する自分のズルさを見つけ出します。
全て、自分がいい人で居たいからなのではないか。
子どもを犠牲にして、わざわざ苦労を背負って世間に褒められたいわけです。
更に、自分でわざわざ苦労を背負っておきながら理不尽だと人を責めるわけです。
助けてと言われたわけでもないのに。
ますます苦しいです。
もう、どこに行ってしまうのか、わたしの心。

今は今で、仕事は減らしましたがあっちこっち飛び回ったり、
放射線の事その他の社会の問題が放っておけません。
相変わらず苦しかった。お金も足りないままです。
けれども、私が好きでやってる事です。

なんで苦しいんだろう。
これって、わたしのやり過ぎなんだろうか。
わたしはこれから抜けられないんだろうか。
抜けていいのかしら。

苦しいのは、お金がないからなんだろうか。

私は、お金を持ってるなら要る人が居たら全部渡しちゃうと思います。
それで間に合うならうれしい。で、足りなくなるなら働く。
今までそれで誰も飢えては死んでない。
なんとかやれて来ました。
下手で苦労はかけたかもだけど、見渡すと結果オーライです。
まだ返せてないところもあるけれど。

昨日朝起きて思ったのです。
私がやっても良かった事だって。
誰の事でも誰がやってもいい事です。
もしか、やり方が下手でも何でも無条件に手伝い合う事が、自然な事だったら
すごく楽だろうなあと思いました。
怠けていても、やるべき事に気がついていなくても、おなかが空いたてるなら
おにぎりを差出すことに、なんか条件が要るんだろうか。
おにぎりを作ってあげるのも、同じに条件なんて無く、資格も義務も要りません。
やってもやらなくてもいいのです。
それでもやりたければ「やる」。

そう思ったら、自分で出来たうれしいことだけのこって、
楽になりました。
子どもは無事育ち、今話すと私がバカだったせいでけっこういろいろいいことも起き始めてるようです。
友達は、どうなったかわからないけれど、100万円くらいは払わなくて済んだはずです。
会社に関わった人たちは、私が下手でしんどい思いもしただろうから申し訳なかったけど、
その時の出会いで今はそれぞれいい感じです。
がんだった義理の妹は、死んでしまったけれど一人暮らしも経験して
好きな人と家族の中で逝ったようです。
生きているうちに見えなかった残された人たちの心の中が見えるのなら、
きっとよろこんでいると思う。
実家の商いは、無くなった母が最後の仕上げをしてくれて、なんとかなりそうです。
タイミングを合わせるのに貢献できたと思う。

誰が誰のために、何をしてもしなくてもいいじゃないか。
家族でも、家族じゃなくても、家族みたいでいいじゃん。
そんなに関係なくても手伝い合えばいいじゃん。
ほんとはそれでやっていけるんじゃないかなあ。
中には狡い人も居るかもしれんけど、
そんなこと心配して心閉じて手を引っ込めなくても
狡い人もどんな人も、まとめて助かっちゃえばいい。
苦しくなければ満ち足りていれば、どんなにがんばってもなかなか狡く居るのは難しいと思う。
真剣にそう信じてしまえた朝でした。

だから、きゅうりちゃんわらしべプロジェクト(←クリック)を迷い無く始めることにしました。

それは、きっと今までであった全部の人とコトのおかげだなあと思います。

きゅうりちゃんは、全部知ってた。ちょっと前に描いた絵です。

9chan201426
もたもたしましたが、すっきりしました。
ちょっと、病気になりそうだったんで。

心は曇ったり明るくなったり忙しいです。
でも、そういうところが誰の心もそれぞれ真剣で大好きです。
発見できるのは楽しいね。
未完成だからある楽しみ。
この発見をよろこぶのは生きている意味のひとつだと思う。

だから、本当はおたがいさまって、こういう楽しみもそれによる学びも包括されている
壮大な「おたがいさま」なのです。行った時に完結して、恩返しの義務なんかありません。
なにしろ、手伝い合うことが自然で、
もうすでに抗えないおたがいさまの和の中に私たちは生きております。
たぶん。

 

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